太田述正コラム#11392(2020.7.5)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その70)>(2020.9.26公開)

 「・・・皇室典範(1889)は、『皇室典範義解』に「皇室自ら其の家法を条定する者なり」と言われるように、皇室の家族法であるが、第一条は「大日本国皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス」と、男系男子の継承を明言し、皇位が家父長制的原則に則って継承されることが明確化された。
 ・・・教育勅語は家父長制国家の父としての天皇ということを示していたが、そのことは皇室制度的にも確定されることになった。

⇒「教育勅語は家父長制国家の父としての天皇ということを示していた」とは、私は全く思いません。
 教育勅語の現代語訳をもう一度読んでご自分で確かめてください。
http://chusan.info/kobore8/4132chokugo.htm (太田)

 それならば、国民の個々の家も当然同じ原則に立たなかければならない。

⇒いずれにせよ、ここでの末木の論理が、私にはさっぱり理解できません。(太田)

 それを規定するのが民法である。
 民法はもともとフランス人ボアソナードらがフランス民法をモデルに、個人主義的な性格の強い法案を起草した(1890)。
 しかし、それが日本の家制度に合わないとして、穂積八束<(注223)>らが「民法出デテ忠孝亡ブ」と猛反発し<(注224)>、全面的に改訂された(1896、98)。

 (注223)「穂積八束<は、>・・・ドイツ留学中に・・・パウル・ラーバント・・・から受けた君主絶対主義の立場にたつ憲法論を唱え、台頭しつつあった民権学派の憲法理論に対して強硬な反対論を展開した。・・・
 その学説は天皇主権の絶対性を説く憲法理論,主権の所在を国体とし,主権発現の態様を政体として,日本を君主国体立憲政体であるとする日本国家論,また,天皇は民族の家長であるとする家族国家論などからな<る。>・・・
 <(ちなみに、彼は、>明治44~45年の天皇機関説をめぐる美濃部・上杉論争に際しては,奥田義人文相に介入を働きかけ,新聞に匿名の美濃部攻撃文を掲載した。<)>」
https://kotobank.jp/word/%E7%A9%82%E7%A9%8D%E5%85%AB%E6%9D%9F-133627
 (注224)「<彼>は<、>《民法出デテ忠孝亡ブ》(《法学新報》第5号)と題する論文を発表し,日本固有の家父長制的家族制度を美俗ととらえ,近代的家族法原理を批判した。
 この論文は〈群集心理を支配するに偉大なる効力〉(<八束の兄の>穂積陳重<の>《法窓夜話》<より>)を発揮し,<民法典>論争に多大の影響を与えることになった。」
https://kotobank.jp/word/%E3%80%8A%E6%B0%91%E6%B3%95%E5%87%BA%E3%83%87%E3%83%86%E5%BF%A0%E5%AD%9D%E4%BA%A1%E3%83%96%E3%80%8B-1424426
 「<具体的には次の通り。>
 条約改正促進のために近代的法典の整備を迫られていた明治政府は,90年フランス人 G.ボアソナードを中心に完成した民法典 (→旧民法 ) を公布し,93年から施行することを定めた。
 これに対し,一部の法律学者や帝国議会議員などの間から強力な反対論 (施行延期論) が出され,施行断行を主張する断行派 (・・・梅謙次郎 ) との間に激しい論争が繰広げられた。
 穂積八束は「民法出デテ忠孝亡ブ」と論じ,論争は延期派の勝利に終り,92年の帝国議会は,施行を延期することを可決した。
 これを受けて日本人起草委員のみによってこれに代る民法典の編纂事業が行われるにいたった。」
https://kotobank.jp/word/%E6%B0%91%E6%B3%95%E5%85%B8%E8%AB%96%E4%BA%89-140173#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8
 「<この>民法典論争・・・<において、>民法典の断行を後押ししたフランス法系の私立法律学校に対して・・・イギリス法系の私立法律学校<は>・・・延期を主張した<。>・・・
 <後者が、>「フランス式の法典が施行されては飯の食い上げになる」ことを憂慮し<たためである。
 すなわち、民法典論争には、>学校の経営維持のための・・・「パンの争い」<の面もあった。>」
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/18311/1/shiryosentahoukoku_37_35.pdf

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[ラーバント説を誤解した穂積八束]

 「ラーバントは<、>ドイツ第二帝国下での帝国議会は、国民の選挙によって議員が選ばれるにもかかわらず、法的な意味では国民の代表ではないとし、当時のドイツ憲法第29条が帝国議会を「全国民の代表」としているのは、「政治的意味において」のことだと指摘しました。・・・
 ラーバントの観察では、ドイツ第二帝国は何千万人かのドイツ国民によって構成された法人ではありません。
 それは20あまりの邦によって構成された連邦国家です。
 つまり、もともとの政治権力は国民ではなく、各邦(しかもその大部分には王様がいました)が保有していて、各邦の権限を少しずつ持ち寄って作り上げたのがドイツ第二帝国というわけです。・・・
 だから、帝国議会が全国民を代表すると憲法が規定したとしても、それに法的意味はありません。
 国民はそもそも代表されるべき主体ではあり得ないからです。
 こうしたラーバントの議論を果たして・・・日本の憲法の説明にそのまま持ってくることができるかと言うと、極めて怪しいと考えざるをえません。・・・
 日本という国を国民によって構成される社団法人としてとらえることは、無理のない法的構成です。
 <例えば「天皇機関説」論争に関してですが、>法学的な正確さという点では、・・・美濃部達吉・・・の方に分があると言うべきでしょう。」
https://books.google.co.jp/books?id=zrw_DwAAQBAJ&pg=PT106&lpg=PT106&dq=%E3%83%91%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%88&source=bl&ots=n1Omf2_EnF&sig=ACfU3U2iDZWnfL_6Om9sQoh31VvD-PIH9A&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwj6z_fev7XqAhUryosBHWf-A4cQ6AEwBXoECAoQAQ#v=onepage&q=%E3%83%91%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%88&f=false 
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⇒「注224」に出て来る「パンの争い」の話、や、すぐ上の囲み記事に言う、穂積八束のラーバント説の誤解、といったことからして、日本の当時の「法律家」達が「家父長制国家」にふさわしい民法なるものを、確固たる信念に基づき、かつまともな法理論を展開しつつ、追求した、とは言えそうもありませんが、問題は、それにもかかわらず、「群集心理<が>支配し」た結果として、(当時の日本の大部分の生活実態から乖離していた(典拠省略)というのに、)家父長制的民法が制定されてしまったところにあります。
 一体どうして、群衆(世論)は家父長制的民法を支持したのでしょうか。
 残念ながら、誰もその解明をしようとした人はいなさそうですが、私の取敢えずの仮説は、家父長制的民法が、当時の、旧武士達や商人達の多くの懐旧の念に訴えるものがあったからであり、かつ、旧武士や商人達以外の人々の多くも、旧武士達が維新の主体となり、文明開化の時代をもたらしたことに敬意を表し、この懐旧の念に理解を示したから、というものです。(太田)

 改訂された民法では家督の相続を設定し、男・嫡出子・年長者を優先する。
 相続は単に財産の問題ではなく、家父長の義務と権限を伴う家そのものを家督として相続継承することになる。・・・」(178~179)

(続く)