太田述正コラム#11396(2020.7.7)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その72)>(2020.9.28公開)

 「内村鑑三<(注226)>・・・は、二つのJ<(注227)>(イエスJesusと日本Japan)を掲げて外国人宣教師の指導を拒否し、独自の無教会主義<(注228)>の立場に立って布教活動や社会的発言を積極的に行った。・・・」(180)

 (注226)1861~1930年。「高崎藩士<の子。>・・・幼少期より、父から儒学を学ぶ。」東京外国語学校/東京英語学校/東京大学予備門卒、札幌農学校卒(二期生)、米アマースト大(理学)卒。
 「日清戦争は支持していた内村だったが、その戦争が内外にもたらした影響を痛感して平和主義に傾き、日露戦争開戦前には・・・非戦論を主張するようになる。・・・
 <但し、彼は、>「戦争政策への反対」・・・と同時に、「不義の戦争時において兵役を受容する」という行動原理を明確にした。・・・
 <また、>他階級への抑圧を繰り返す社会主義の本質的欺瞞を指摘するとともに、後の社会主義思想の退潮を予言する、厳しい批判の言葉を残しているが、これらの言論を<彼は>ロシア革命以前から発していた・・・。そして内村の社会主義批判の姿勢は、矢内原忠雄ら内村の後継者の一部にも引き継がれることとなった。・・・
 <そして、>1924年・・・に米国で可決された、排日法案に反対するために、絶交状態にあった徳富蘇峰と和解して、『国民新聞』に何度も排日反対の文を掲載した。また、植村正久や小崎弘道ら教会指導者と「対米問題」について議論を重ねた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E6%9D%91%E9%91%91%E4%B8%89
 高崎藩は、藩庁が高崎城に置かれ、「交通の要所でもあり、有力な譜代大名が封じられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B4%8E%E8%97%A9
 (注227)「内村鑑三は、・・・1884年・・・に私費で<米国>に渡り、・・・サンフランシスコに到着する。拝金主義、人種差別の流布したキリスト教国の現実を知って幻滅する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E6%9D%91%E9%91%91%E4%B8%89
 「<米国>のアマスト大学の卒業後、ハートフォード神学校に入学する。しかし、伝道事業が職業と化していたことなどからくる<米国>のキリスト教への失望と、不眠症の悪化により退学。日本へと帰国することとなる。また、内村がキリスト教に回心したことは、日本に対してうしろめたいことであり、日本に対しても配慮した形のキリスト教への考えを作り上げる必要があった。そのため、内村が元々持っていた日本への愛国心と<米国>のキリスト教ではないキリスト教そのものへの信仰をあわせて、「二つのJ」を信仰するようになった。
 内村の墓碑に掲げられている、次の言葉の信念にも関連するという憶測がある。
 I for Japan; Japan for the World; The World for Christ; And All for God.」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E3%81%A4%E3%81%AEJ
 (注228)「内村鑑三によって始められ,弟子の塚本虎二,矢内原忠雄,黒崎幸吉らの活動によって定着したとみられる日本独自のキリスト教。・・・〈<ちなみに、>南原繁・・・<が東大法入学後に>弟子となり<、>〉・・・[最晩年に師事したのが、大塚久雄であった。]」
https://kotobank.jp/word/%E7%84%A1%E6%95%99%E4%BC%9A%E4%B8%BB%E7%BE%A9-140311
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8E%9F%E7%B9%81 (〈〉内)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E6%9D%91%E9%91%91%E4%B8%89 (前掲)([]内)
 「理論的には、マルティン・ルターの宗教改革の二大原理(聖書のみ・万人祭司)を極端に現実化したものである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%95%99%E4%BC%9A%E4%B8%BB%E7%BE%A9
 「内村は、札幌農学校在学中から、宣教師による教派主義の弊害を知り、札幌に独立の教会を設立した。その後、フレンド派のキリスト教の影響、強い独立精神、ナショナリズム、教会との関係などから、積極的に無教会主義を表明することになる。「無教会」ということばは、1893年・・・に刊行された『基督(キリスト)信徒の慰(なぐさめ)』の「第3章 基督教会に捨てられし時」にみいだされ、1901年・・・には雑誌『無教会』を創刊して、そこで「無教会」を「教会の無い者の教会」(第1号)と述べている。また同誌の第3号において「無教会主義」の語も初めて用いられている。内村によれば、教会の建物はもちろん、教師の資格も洗礼や聖餐(せいさん)などの儀礼も、キリスト教に不可欠のものでない。しかし、教会やその儀式・制度をすべて否定するのではなく、のちには「無教会は進んで有教会となるべきである」とも記している。」
https://kotobank.jp/word/%E7%84%A1%E6%95%99%E4%BC%9A%E4%B8%BB%E7%BE%A9-140311 前掲

⇒内村鑑三は、親藩の武士の子ながら、勝海舟通奏低音に完全に染まることなく「日清戦争には反対の立場をとった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E6%B5%B7%E8%88%9F
この通奏低音の主の勝とは違って日清戦争は支持したものの、日露戦争には反対したことから、島津斉彬コンセンサスないし横井小楠コンセンサスとも距離を置いていたようですが、その対米観や対社会主義観、や、すぐ後で触れるその思想からして、杉山構想的なものを明かされておれば、それに賛同したのではないか、と、私は考えています。
 で、内村鑑三の思想ですが、要するに、彼、四書五経を新旧約聖書で置き換えただけだ、というのが私の見立てです。
 儒教には学派はあっても、教師の資格も教徒の「資格」も儀礼もないことに倣ったのが無教会主義である、と。
 また、日本の儒者の多くが、支那の史書の読書等を通じて日本文明至上主義者になったのと同様、彼は、米国での体験等を通じて米国よりもむしろ日本において聖書が理想視する平和や利他主義(的なもの、実は人間主義)等がより確立していることに気付き、(彼の墓碑に記されているように)日本文明至上主義者になった、と。
 だからこそ、彼は、日本文明至上主義者であったところの、宗教家たる日蓮、に強い共感を覚えた(コラム#11375)のだろう、とも。

(続く)