太田述正コラム#11412(2020.7.15)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第二章以下』を読む(その3)>(2020.10.6公開)

 「一方、源氏は義家が武門としての地位を固め、中央政界、貴族社会の間でも勢力を伸ばしたかにいわれる。
 しかし後三年合戦<(1083~1087年)>への介入は無駄骨だった<。>・・・
 <すなわち、同>合戦は、<義家が>関東の武士を率いて転戦したため、源氏が東国に勢力を築くきっかけになったとされるが、実際は関東の武士の参加は少数で、・・・合戦を勝利に導いた真の力は清原氏<(注8)>であった<し、この>合戦は私闘とみなされたため、恩賞をえられ<ず、>・・・朝廷は乱の翌年別人を陸奥守に任じ、任期の残る義家を交代させた<ので、>奥州に勢力を拡げようとした河内源氏にとっては、骨折り損のくたびれもうけだった<のだ>。・・・

 (注8)「清原・・・武貞の跡<を>継<いだ、>・・・その子真衡は・・・[出羽国の国司であった平氏の一門、平安忠の次男と言われる成衡を養子に迎え<、更に、>その成衡に源氏棟梁である源頼義の娘を嫁がせ<た。>]
 真衡は・・・一族の長老吉彦秀武や異父異母弟清衡(藤原経清の遺児。母親が清原氏に嫁したため養子となる)、異母弟家衡(武貞と清衡母のあいだの子)と対立し、その鎮圧戦の最中に急死した。<頼義の長男である>源義家の調停により遺領は2人の弟が分け合うこととなったが、この条件を不服として家衡が清衡を攻撃、出羽国沼ノ柵では清衡側としてこの紛争に介入した源義家軍を破った。家衡の叔父にあたる武衡は家衡の戦勝を聞きつけてこれに与力し、出羽国金沢柵の戦いでは籠城戦を戦ったものの清衡を応援した義家軍により滅ぼされた。この一連の内紛を後三年の役といい、勝利した清衡は奥州の覇権を握り、摂関家に届け出て実父藤原経清の姓藤原を名乗るに至<った。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E7%BE%BD%E6%B8%85%E5%8E%9F%E6%B0%8F
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E5%8E%9F%E7%9C%9F%E8%A1%A1 ([]内)
 「真衡急死後の成衡の動向は不明」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E5%8E%9F%E6%88%90%E8%A1%A1
 「藤原経清(ふじわら の つねきよ)は、・・・藤原秀郷の6代後裔」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%B5%8C%E6%B8%85
 「藤原清衡<は、>・・・藤原経清と陸奥国奥六郡を治めた俘囚長・安倍頼時の娘・・・の間の子として生まれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%B8%85%E8%A1%A1

⇒果たして「後三年合戦<は、>・・・河内源氏にとっては、骨折り損のくたびれもうけだった」のでしょうか?
 義家の父親で、当時に陸奥守兼鎮守府将軍であった源頼義と清原武貞とが活躍した前九年合戦(1051~1062年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E4%B9%9D%E5%B9%B4%E3%81%AE%E5%BD%B9
にはここでは触れませんが、後三年合戦の当時に、同じく陸奥守兼鎮守府将軍であった義家が、自分の任地で出来したところの、妹の嫁ぎ先の清原家の内紛に、たとえ「私戦」としてであれ介入しないわけにもいかなかったでしょうし、清衡という藤原系の武士に最終的に与して全国の藤原系武士達に恩を売ることにもなったことに加え。父親の奥州時代とこの義家の奥州時代において、河内源氏が実戦経験を重ねたことが、源氏が平氏政権を打倒し、鎌倉幕府/室町幕府を作ることに繋がった(注9)、と、私は考えています。(太田)

 (注9)「朝廷は、上記戦役を義家の私戦とし、これに対する勧賞はもとより戦費の支払いも拒否した。更に義家は陸奥守を解任された・・・。また義家が役の間、決められた黄金などの貢納を行わず戦費に廻していた事や官物から兵糧を支給した事から、その間の官物未納が咎められ、義家はなかなか受領功過定を通過出来なかった。そのため義家は新たな官職に就くことも出来なかった。ちなみに10年後の・・・1098年・・・、白河法皇の意向で受領功過定が下りるまでその未納を請求され続けた。
 結果として義家は、主に関東から出征してきた将士に私財から恩賞を出したが、このことが却って関東における源氏の名声を高め、後の源頼朝による鎌倉幕府創建の礎となったともいわれている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E4%B8%89%E5%B9%B4%E3%81%AE%E5%BD%B9
 「受領功過定(ずりょうこうかさだめ)とは、平安時代中期に太政官において行われた任期を終えた受領に対する成績審査。除目や叙位の際に参考資料とされた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%97%E9%A0%98%E5%8A%9F%E9%81%8E%E5%AE%9A
 「義家の曽孫にあたる源頼朝は、武士を集めるため武士の鑑である頼義・義家のイメージを巧みに政治利用した。」
http://www.photo-make.jp/hm_2_1/minamoto_yoshie.html
 「義家は「われ七代の孫に生まれ代わりて天下を取るべし」という遺言を残し、義家から七代目にあたる足利家時は、自分の代では達成できないため、三代後の子孫に天下を取らせよと祈願し、願文を残して自害した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E5%AE%B6

 <それに、>ある上流貴族が「年来武士の長者として、多く罪無き人を殺す」(『中右記』<(注10)>嘉承三年正月二九日条)と書いたように、<義家>の度を越えた殺戮にたいする嫌悪の感情も強かった。

 (注10)「藤原宗忠が・・・1087年・・・から・・・1138年・・・まで書いた日記」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%8F%B3%E8%A8%98
 藤原宗忠(むねただ。1062~1141年)は、「藤原北家中御門流の権大納言藤原宗俊の長男。従一位・右大臣。・・・ 音楽の才があり、管弦や笙をよくした。また催馬楽にも秀でた。音律に関する著書『韻花集』『白律韻』があったとされる<。>・・・源義家の活動やその評価などは当時の人々の感想として貴重。特に、摂関家の内紛や院政に対する批判や批評を行い、源氏の内紛、平家の台頭に関しても貴重な史料<である『中右記』>を残し<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%97%E5%BF%A0

⇒この、藤原宗忠の、義家に対する否定的評価の背景については、今後の検討課題にしたいと思います。(太田)

 そのため院政が始まった義家晩年には、勢力にかげりが見え始める。
 とくに義家の嫡子義親(よしちか)が国衙支配への反逆を起こして平正盛に追討され、続いて一族に内紛があった。
 源氏の武威は失われ、政界でも為義・義朝らは、忠盛率いる伊勢平氏にどんどん水をあけられていった。」(64~65、67)

(続く)