太田述正コラム#11414(2020.7.16)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第二章以下』を読む(その4)>(2020.10.7公開)

 「地方に目を転ずると、諸国に拠点を求めた源平のツワモノの家から、二次的な武士のイエが成立し、それぞれが独自に武装集団を形成し始める。
 国衙の軍事体制も、彼らの結集によって充実し始め、白河院<(注11)>より「諸国に多く弓矢・太刀などの武器が満ちている。宣旨を下され制止を加えなければならない」(『後二条師通記<(注12)>(ごにじょうもろみちき)』)承徳(じょうとく)三年<(1099年)>五月三日条)といわれるような事態が生まれていた。

 (注11)1053~1129年。天皇:1073~1087年。「1086年・・・11月、白河天皇は・・・、実子である8歳の善仁親王(第73代堀河天皇)を皇太子に立て、即日譲位した。なお、堀河天皇の生母で白河天皇が寵愛した中宮・賢子は、実仁親王薨去の前年に若くして病没している。太上天皇となった白河上皇は、幼帝を後見するために自ら政務を執り、いわゆる院政が出現した。以後も引き続き摂政関白は置かれたが、その実態は次第に名目上の存在に近いものとなってゆく。・・・
 堀河天皇崩御後は、自らの孫である・・・鳥羽天皇、更に曾孫の・・・崇徳天皇と3代にわたって幼主を擁し、43年間にわたり院政を敷いた。天皇の王権を超越した政治権力を行使するこうした「天皇家の家督」のことを、後世「治天の君」と呼ぶようになる。・・・
 『平家物語』の巻一には、<そんな>白河法皇が「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆いたという逸話がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%B2%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87
 (注12)「藤原師通の記した日記。・・・1083年・・・から・・・1099年・・・まで書かれたらしいが、うち数年分が欠ける。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E5%B8%AB%E9%80%9A%E8%A8%98
 藤原師通(1062~1099年)は、「1094年・・・<父の>師実の後を継いで関白に就任すると、白河上皇から自立して親政を行おうとしていた堀河天皇と共に積極的な政務を展開する。
 院政が制度として確立していない当時、成人の天皇と関白が緊密に提携していれば、上皇が権力を振るう余地は少なかった。・・・師通は大江匡房に学問を学び、匡房に代表される伝統的な実務官僚層を掌握する。一方で、新興の院近臣勢力に対しては警戒感を示し、・・・また、上皇が近臣受領を受領功過定を経ずに重任させようとしたのを制止している。その政治は「嘉保・永長の間、天下粛然」と賛美された。
 ・・・1095年・・・美濃守・源義綱の流罪を求める延暦寺・日吉社の強訴に対して、要求を拒否した上で[源義綱と]源頼治を派遣して大衆を撃退した。この際に矢が山僧・神人に当たり負傷者が出たため、延暦寺は朝廷を呪詛した。・・・師通は悪瘡を患い38歳で急死する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%B8%AB%E9%80%9A
 源義綱(1042~1132年)は、「平安時代後期の武将。河内源氏2代棟梁・源頼義の次男。母は平直方の娘で、兄の源義家(八幡太郎)、弟の源義光(新羅三郎)と同腹である。・・・
 1095年・・・、美濃の延暦寺荘園領を宣旨によって収公した際、寺側と小競り合いになり、1人の僧が矢に当たって死んだ。延暦寺・日吉社はこれに怒り、初めて日吉社の神輿を担いでの強訴を行った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E7%B6%B1
 源頼治(よりはる。?~?年)は、「大和源氏、陸奥守・源頼俊の次男。・・・
 師通<の>・・・急死・・・を神罰と恐れた朝廷は、ついに頼治を処罰することを決断し、佐渡国(一説には土佐国)への配流とした。
 曾祖父頼親、祖父頼房に次ぐ頼治の失脚は、大和源氏の勢力衰退に一層拍車をかけることとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%B2%BB

⇒高橋が引用した師通による白河上皇の発言を紹介した記述は、上皇も関白であった師通も、どちらも、私の言う、桓武天皇構想の完遂を担っていた側の人間である以上、この記述の時期からして、武家以外の、寺社等までもが、「弓矢・太刀などの武器」で武装している事態を嘆いたものと考えるべきでしょう。
 白河上皇の「山法師」への嘆き(「注11」)を想起してください。(太田)

 そうしたなかで、武に堪能な在地領主の一部が、新たに武士身分に加わってきた。
 在地領主の武士化であり、武士の在地領主化である。

⇒くどいようですが、私見では、武士というか、武家、の在地領主化、が先にあって、それが在地領主の武士化を促したのです。
 そして、武家の在地領主化は、広義の天皇家がトップダウンで追求してきたことなのです。(太田)

 ・・・私的な武力行使が日常化している社会では、まさにそれゆえに、そのゆき過ぎを制御するシステムの強化と、制御の実行部隊(正統化された武力)への期待が高まる。
 武力が社会秩序形成の推進力になれば、その道のプロをめざす者が増加するのは当然であろう。」(67~68)

(続く)