太田述正コラム#11432(2020.7.25)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第二章以下』を読む(その13)>(2020.10.16公開)

 「最高実力者の清盛は、摂津福原に居を構え、めったに上洛していない。
 ・・・内乱が始まるまでの11年間にわずか19回である。
 これは彼が後白河法皇の権力に空間的にも距離を置くことで、自立性を確保しようと意図したためと考えられる。・・・
 頼朝も、・・・その幕府を福原以上に都から離れた鎌倉に開き、清盛以上に上京を禁欲する(平家討滅後わずか2回)。

⇒1167年に清盛の嫡男で権大納言の「重盛に対して東山・東海・山陽・南海道の山賊・海賊追討宣旨が下された・・・。これにより、重盛は国家的軍事・警察権を正式に委任され、清盛の後継者としての地位を名実ともに確立し」ており、清盛こそ、翌1168年、出家して「福原に退隠し<たけれど>、<都の>六波羅には重盛が残って一門の統率にあた<り>」、<重盛は>その後、内大臣にまでなり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%87%8D%E7%9B%9B
かつまた、この重盛の弟の宗盛も、1170年に権中納言、1177年に右近衛大将、1178年に権大納言へと昇任を重ねており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%97%E7%9B%9B
清盛、と、朝廷内に、近親を送り込んでいなかった源頼朝、の「自立性」を、都との物理的距離や上洛の回数、で云々しても、余り意味がないのではないでしょうか。(太田)

 清盛の親平家公卿を使う手法から一歩進み、議奏(ぎそう)をおいて朝廷にたいする影響力を強めようと試みた。
 議奏は頼朝の指名した10人の公卿によって、重要な政務を合議し奏上させる役である。<(注34)>

 (注34)「議奏に指名された公卿は<、頼朝の少年時代に面識の可能性があった一人はともかく、>頼朝との面識はなく、頼朝追討宣旨に賛同した<公卿まで、一人>含まれるなど、必ずしも親鎌倉派という陣容ではな<く、実際、>・・・その後、面々のほとんどが院庁別当として後白河院に取り込まれてしまい、議奏はその機能を停止し<まっ>た。ただし、その後も朝廷内にて必要に応じて設置された形跡<は>あ<る。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AD%B0%E5%A5%8F

⇒「注34」の事実を踏まえれば、高橋が、ここで、わざわざ議奏に言及する意味があったのかどうか、疑問です。(太田)

 またもともと平家の本拠であった六波羅を、鎌倉権力の京都での出先機関に再編成した。
 これが京都守護<(注35)>(御家人を率いて洛中警護、裁判その他の政務、朝幕間の連絡等にあたる機関)であり、のちに南北両六波羅(探題)<(注36)>に発展する。」(79~80)

 (注35)「最初は<頼朝の>上洛時に、北条時政が任命され京都の御家人を統率、洛中の警護・裁判を行い、朝廷と幕府の間の連絡の任に当たっていたが、承久の乱後に六波羅探題が設置されたことで消滅した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%AE%88%E8%AD%B7
 (注36)「探題という称呼は南北朝時代以後のもので、鎌倉時代には単に六波羅、六波羅守護などとよんだ。1185年・・・以来、幕府は京都守護を置いたが、1221年・・・の承久の乱の際、後鳥羽上皇に滅ぼされた。この乱にあたり、幕府軍を率いて上洛した北条泰時・時房は、そのまま六波羅の北・南の居館に駐留し、乱後の処理にあたった。これが六波羅探題の起源である。その後も北・南各1名の探題が北条氏の一門から選任され、これを六波羅北方(北殿)、同南方(南殿)とよび、幕府の執権、連署に次ぐ重職であった。しかし北と南とでは、北方のほうが上席であり、南方にはしばしば欠員があった。探題の職務は、第一は朝廷との交渉で、これには朝廷側の関東申次である西園寺氏を介することが多かった。第二は京都をはじめ近国の治安維持で、これには探題の被官が検断頭人(けんだんとうにん)としてあたり、御家人を統率した。第三が裁判で、六波羅評定衆、同引付衆らが担当したが、その職員には、幕府の評定衆をはじめとする事務官僚の上洛したものが多い。これら六波羅探題の諸機関は徐々に整備が進められ、幕府の機構に準ずるものとなった。裁判の管轄区域は、尾張(のち三河)、加賀以西で、・・・永仁年間 (1293~99)<における> ・・・鎮西探題の成立後は九州が管轄から離れた。・・・はじめ守護・地頭人を処罰することができず、訴訟についても特殊な事項についての裁判権が認められないなど権限が小さかったが、後に越訴制度を設備するなど・・・六波羅の裁判権はしだいに強化されていった<ものの>、重要事項については鎌倉末に至るまで、幕府が裁判権を握っていた。・・・
 1333年元弘の変に際し足利尊氏らに攻められ滅んだ。」
https://kotobank.jp/word/%E5%85%AD%E6%B3%A2%E7%BE%85%E6%8E%A2%E9%A1%8C-152679

(続く)