太田述正コラム#11434(2020.7.26)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第二章以下』を読む(その14)>(2020.10.17公開)

 「・・・頼朝は、内乱中の寿永2年(1183)10月、反乱軍として実効支配していた東国への行政権を朝廷から認められ<(注37)>、その後も東国を権力の基盤とした。

 (注37)寿永二年十月宣旨。「朝廷から下されたその宣旨は、東海・東山両道の荘園・公領の領有権を回復させることと、それに不服の者については頼朝へ連絡し「沙汰」させる、という2つの内容を有していた・・・。前段は朝廷側の要求の実現であり、後段は頼朝側の要請が承認されたものと解されている。後段に現れる「沙汰」の意味するところについては様々な議論があるが、・・・「国衙在庁指揮権」とする見解が有力である。・・・
 宣旨の発布を知った義仲は激しく怒り、後白河院に対し「生涯の遺恨」とまで言うほどの強い抗議を行っている・・・
 [<八月>に義仲は従五位下左馬頭越後守、行家は従五位下備後守に任じられ<てい>た<ところ、>]宣旨の発布と同時に、頼朝は配流前の官位である従五位下右兵衛権佐に叙せられ、謀叛人の立場から脱却した。・・・それまで頼朝は、朝廷が使用していた寿永年号を拒み、<以仁王令旨が出た頃の>治承年号を使用し続けていたが、宣旨発布の前後から寿永年号を使用し始めている。・・・頼朝は宣旨施行のためと称して、源義経・源範頼ら率いる軍を京方面へ派遣した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BF%E6%B0%B8%E4%BA%8C%E5%B9%B4%E5%8D%81%E6%9C%88%E5%AE%A3%E6%97%A8
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%9C%9D ([]内)
 このあたりの事情が分かり易く説明されている。↓
https://manareki.com/10gatusenzi

 平家も摂津の西端から播磨東部の内陸部にいたる広域の要所要所を自領化しており、さらに瀬戸内海を中心とした西日本を勢力範囲としていた。
 こうした制度面・形態面の類似から、筆者は平家も幕府と考えてよいと思い、鎌倉幕府に先立つ六波羅幕府として学界に問題提起している。・・・

⇒「私」に係る「自領」とか「勢力範囲」、と、「公」に係る広域に係る「沙汰」権、とは全く次元を異にしており、この点だけでも、高橋の六波羅幕府説には強い疑問符が付きます。(太田)

 頼朝は奥州藤原氏滅亡後の・・・1190<年>11月上洛する。
 その時、右近衛大将に就任し、10日後には早くも辞任した。
 近衛大将は朝廷最高の武官職で、内裏の警固を任とし、天皇の行幸には必ず供奉しなければならない。・・・
 頼朝にすれば、近衛大将に長居して既存の国制の枠組み内に取りこまれるのはごめんだ、しかしこの地位は利用価値がある。
 とりあえず就任した実績は作っておこう、という思惑からだろう。・・・
 <その上で、>頼朝<は、>「前大将(前右近衛大将)という称号をやめ、新たに大将軍を拝命したい」と申し出、王朝側<は>いろいろな大将軍のうちから征夷大将軍を選び与えた・・・。
 征夷大将軍は対エミシ戦を戦った坂上田村麻呂が平安初期に二度任じられ、亡くなる前年大納言に昇任する時点まで帯び続けた名誉の官職である。
 じつは田村麻呂は23歳で朝廷に出仕して以来一貫して近衛府の武官の道を歩み、少将・中将と栄進し、二度目の征夷大将軍就任後に右近衛大将を兼任した。
 王朝側は彼の近衛府と征夷大将軍との深い関係を念頭に置き、頼朝の獲得した諸国守護権を、なんとか自分たちの制御の効く範囲にとどめておきたいとの期待をこめて、征夷大将軍を選んだのであろう。<(注38)>」(80~81)

 (注38)「頼朝が望んだのは、「前右府」の号に代わる「大将軍」であり、それを受けた朝廷で「惣官」「征東大将軍」「征夷大将軍」「上将軍」の4つの候補が提案されて検討された結果、平宗盛の任官した「惣官」や、義仲の任官した「征東大将軍」は凶例であるとして斥けられ、また「上将軍」も日本では先例がないとして斥けられ、坂上田村麻呂の任官した「征夷大将軍」が吉例であるとして、頼朝を「征夷大将軍」に任官することにしたという。つまり、頼朝にとって重要なのは「征夷」ではなく「大将軍」で、朝廷が消去法で「征夷大将軍」を選んだことが<比較的最近>明らかとなった。・・・
 頼朝が「大将軍」を望んだ理由としては、10世紀~11世紀の鎮守府将軍を先祖に持つ貞盛流平氏・良文流平氏・秀郷流藤原氏・頼義流源氏などが鎮守府「将軍」の末裔であることを自己のアイデンティティとしていた当時において、貞盛流の平氏一門・秀郷流の奥州藤原氏・自らと同じ頼義流源氏の源義仲・源行家・源義経などといった鎮守府「将軍」の末裔たちとの覇権争いを制して唯一の武門の棟梁となり、奥州合戦においても意識的に鎮守府「将軍」源頼義の後継者であることを誇示した頼朝が、自らの地位を象徴するものとして、武士社会における鎮守府「将軍」を超える権威として「大将軍」の称号を望んだとする説が出されている。また、将軍職が武家にとり、戦いを指揮統制する地位で重んじられ、それらを上に立ちまとめる「大将軍」が、武門の棟梁として指揮統制するのに重要だったという説がある。・・・
 <しかし、>後白河が既に終わった合戦の戦功として征夷将軍(=征夷大将軍)を与えようとしたものの頼朝が辞退した<という過去があった可能性が高いことから、朝廷側と>頼朝が共に征夷大将軍<を含む大将軍>を名誉的な官と見なし、「武家の棟梁」「東国の支配者」の官職としては認識してはいなかった可能性が<指摘されている>。・・・
 <そして、その上で、>実際に征夷大将軍補任が政治的意味を持つようになるのは、河内源氏嫡流が断絶して武家源氏ではない鎌倉殿(摂家将軍)を迎えた時<であって、>摂家将軍を擁立した執権北条氏ら鎌倉幕府側は、鎌倉殿の後継者の地位及び頼朝以来認められてきた諸権限を頼朝以来の3代が共通して補任されてきた空名の官職である征夷大将軍の職権として結びつけた上で、新たな鎌倉殿である摂家将軍や宮将軍への継承を求め、承久の乱後に親幕府派によって掌握された朝廷もこれを認めたことにより、征夷大将軍が「武家の棟梁」「東国の支配者」の官職に転換されたとする<説が唱えられるに至っている。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E5%A4%B7%E5%A4%A7%E5%B0%86%E8%BB%8D

⇒「注38」のスタンスに説得力を感じるので、高橋のこの見解にも、私は与しません。(太田)

(続く)