太田述正コラム#11452(2020.8.4)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第二章以下』を読む(その23)>(2020.10.26公開)

 「・・・<室町>幕府は、守護連合政権の性格があるとともに、当初の頃は、将軍は守護職の任命を通じて守護の首をすげ替えることもできた。
 しかし15世紀に入ると、反乱でも起こさない限り、守護職は世襲されるようになってゆく。
 それは軍事・警察関係以外は国衙行政への介入を禁じられていた鎌倉時代の守護と違って、この時期の守護は、国内の国人層を家臣化するとともに、国衙機構を掌握し荘園・国衙領に支配力を及ぼすようになって、任国との結びつきがぐんと強化されていたからである。
 その流れを逆らうように六代将軍<足利>義教<(注63)>(よしのり)は、有力守護・廷臣・有力寺社を弾圧し、将軍への権力集中をめざした。

 (注63)1394~1441年。将軍:1428~1441年。「室町幕府第6代将軍。義満の子で,母は三宝院坊官安芸法眼の娘慶子。義持の同母弟。・・・1403・・・年6月青蓮院に入室<し、1408>年3月得度して義円の法名を称す。<1411>年7月受戒,次いで大僧正に上り,准后の宣下を受ける。<1419>年11月より翌々年4月まで天台座主。・・・1428・・・年1月,義持が嗣子なく急死するに当たり,宿老たちは遺言による後継指名を望んだが,義持は拒否。・・・協議でくじによる選出を決した。・・・くじの結果義円が後嗣と決定,同年3月還俗して義宣と名乗った。のちの義教である。聖界にあっては准后大僧正という最高位にあったが,還俗後は次第昇進を要すとの意見が通り,まず従五位下左馬頭に叙任,翌年3月元服し,将軍宣下を受けた。・・・1432・・・年8月左大臣,淳和・奨学両院別当を兼ね,源氏長者に補された。 治世のはじめは宿老たちの意向に従い合議制を守ったが,同時に評定衆や引付頭人を再設して管領権力の抑止を図り,漸次将軍専制を志向した。<1428>年北畠満雅の蜂起を鎮圧し,称光天皇没後は伏見宮貞成の子を迎えて後花園天皇に擁立するなど幕権の威を示したが,性酷薄で残忍を極め,廷臣や諸将を小過を以て大量に処分したので「万人恐怖」「悪御所」と呼ばれて恐れられた。<1435>年2月には嗷訴を繰り返す山門を弾圧,中堂は炎上した。<1438>年8月の関東公方足利持氏の挙兵(永享の乱)に際しては足利義満時以来廃絶していた綸旨を奏請して,これを鎮圧した。守護家の家督にも積極的に介入し,衆議に名を借りて細川氏を除くほとんどの宿老家の手入れを行った。<1440>年5月,一色義貫,土岐持頼を暗殺し,翌年1月には畠山持国を追放。そのため各守護は恐慌をきたし,・・・赤松満祐により自邸に招かれ,宴席中に斬殺された(嘉吉の変)。」
https://kotobank.jp/word/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%95%99-14303

 このため嘉吉元年(1441)、守護職の没収を恐れた赤松満祐<(注64)>(みつすけ)に殺されてしまった(嘉吉の乱)。

 (注64)1381~1441年。「赤松討伐の綸旨が出されて満祐は朝敵とされ・・・一族69名と切腹自殺する。・・・
 死後、従弟の満政、甥の則尚が赤松氏再興を狙い挙兵したが、宗全に鎮圧された。しかし・・・1458年・・・、又甥に当たる赤松政則が後南朝から神璽を奪回した功績で再興を果たした(長禄の変)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%9D%BE%E6%BA%80%E7%A5%90

⇒義教は、日本が再中央集権制化過程に入っていてその趨勢には抗い難い、との自覚の下、その過程の進行を早めようとして意図的に恐怖政治を敷いた、と私は見ていますが、それを徹底しなかったために、赤松満祐に足をすくわれ、その志半ばで横死させられてしまった、というわけです。
 このことによって、足利将軍家による上からの再中央集権制化は挫折し、足利将軍家以外の手による下剋上的な再中央集権制化の試みが本格化するまでの間、日本は戦乱のうち続く、戦国時代を経験することになるのです。(太田)

 この前後、京都を中心に大規模な徳政一揆(土民の一揆のうち、特に売買・貸借契約の破棄を命ずる徳政令の発布を要求したもの)が続発して幕府に打撃を与えている。
 また早くから独立的であった九州に続き、関東八カ国も幕府の統制から離脱して、戦乱状態に突入した(享徳の乱)。」(91~92)

 (注63)「145<5>年(享徳3年)から1482年まで続いた関東の大乱。・・・永享の乱(1438)ののち鎌倉公方は置かれていなかったが,1449年・・・8月足利持氏の遺子永寿王が京都から迎えられ,元服して成氏と称した。・・・一方,関東管領は上杉憲実の子憲忠が任ぜられており,成氏と憲忠の間はうまくいかなかった。成氏は下向すると千葉,小山,宇都宮らの豪族層を重用したため,山内上杉憲忠,扇谷上杉顕房の両上杉氏やその執事である長尾景仲,太田資清らとの間に不穏な空気が流れはじめ,翌<1450>年4月成氏は鎌倉から江ノ島に移り,長尾,太田らがこれを攻めるという事態となった・・・[(江ノ島合戦)。この合戦は間もなく和議が成立したが、これにより鎌倉公方と上杉氏との対立は容易に解消し得ない状態となった。]
 [1455年。鎌倉で]成氏が上杉憲忠を謀殺し<乱が>勃発。その後,下総古河(こが)に走った成氏(古河公方)と,将軍義政から関東に派遣され伊豆堀越(ほりごえ)に居を構えた弟の政知(堀越公方)が対立。上杉氏は政知を奉じて成氏としばしば戦ったが,東国武士もそれぞれを支持し,お互いに東国全域を支配下にできないまま和睦した。」
https://kotobank.jp/word/%E4%BA%AB%E5%BE%B3%E3%81%AE%E4%B9%B1-829482
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AB%E5%BE%B3%E3%81%AE%E4%B9%B1 ([]内)

⇒戦国時代が始まったのは、応仁の乱が始まった応仁元年(1467年)、とするのが通説ですが、享徳の乱が始まったのが1455年であり、事実上、戦国時代はここに始まったと見ることができそうです。(注65)(太田)

 (注65)「戦国時代の始期と終期は地域ごとに異なるとする見解も有力である。この場合、終期は各地域が統一政権の支配下に入った年代を終期とするが、始期は地域ごとに大きく異なっている。
 畿内では明応2年(1493年)の明応の政変を戦国時代の始期とし、・・・1568年・・・の足利義昭と織田信長の上洛を終期とする。
 また、関東地方では、享徳3年(1455年)に勃発した享徳の乱によって、利根川を境界に古河公方足利氏と関東管領上杉氏によって東西二分化されて戦国時代が始まり、・・・1590年・・・の豊臣氏による小田原征伐によって戦国時代が終わったとされている。
 東北地方では、永享の乱によって陸奥・出羽両国が鎌倉府の支配から離れた永享10年(1438年)が戦国時代の始まりとされ、豊臣氏による・・・1590年・・・の奥羽仕置が戦国時代の終焉とされている。
 一方で、中国・四国・九州の西国地域のように具体的な始期を検出できない地域も存在する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)

(続く)