太田述正コラム#11932006.4.19

<よみがえる米帝国主義論(その2)>

 先の大戦後、米国がソ連を敵視したのは、ソ連が資本主義を否定する共産主義勢力の総元締めであると考えられたからであり、対ソ冷戦は、米国の経済的目的のために戦われたのだ。

 モサデグの追放の時もそうだったが、冷戦時代の米国は、民族主義的な動きの背後には必ずソ連がいると思いこんでいた(注1)。米国が共産主義を掲げた民族主義北ベトナムの「侵略」から南ベトナムを防衛すべく、ベトナム戦争を戦ったのは、まさにそのためだった。

 (注1)この思いこみを形成した元祖が、アイゼンハワー(Dwight D. Eisenhower米大統領の時の国務長官のダレス(John Foster Dulles1888??1959年)だ。

 

その過程で、1963年(の暗殺直前)にケネディ(John F. Kennedy)米大統領は、米国の傀儡ではあっても、形の上では民主的に選ばれていた南ベトナムのゴ・ディン・ディェム(Ngo Dinh Diem)大統領を打倒するための、米CIA主導の南ベトナム軍によるクーデター決行を承認した。しかし、クーデターは暴走し、ゴと彼の弟は殺害されてしまい、南ベトナムの政権は、一層弱体化してしまう。その行き着いた先がベトナム戦争での米国の敗北だった(注2)。

 (注2)ベトナムに関しては、米国が支援してゴ・ディン・ディェムを打倒した1963年のクーデターによってベトナムの民主主義が空洞化したわけではなく、真の転機は、1956年に、米国がジュネーブ協定で定められた南北ベトナム同時選挙を行わせなかったことだ、というキンザー批判がある。これこそが後に、ベトナム戦争において、200万人のベトナム人と58,000人の米兵の死をもたらすことにつながった米国の大愚行だったというのだ。ちなみに、アイゼンハワー米大統領は、この選挙をやらせなかったのは、ホーチミン(Ho Chi Minh)が「恐らく人口の80%」の票を獲得したであろうからだ、とまことに率直に語ったという。(太田)

 

CIAが主導した政権転覆の最後のものが、1973年のチリの容共アリェンデ(Salvador Allende)政権の打倒だ(注3)。これは、米国企業がチリに持つ銅利権を、国有化政策をとったアリェンデ政権から守るためでもあった。

(注31970年にアリェンデが大統領に就任し、社会主義政策を推進した。ニクソン(Richard M. Nixon)米大統領は、アリェンデ政権発足時からCIAに命じて同政権の転覆を画策させたが、それがようやくチリ軍のクーデターの形で成功したのが1973年だった。アリェンデはその時死亡するが、殺害されたのか自殺だったのか不明。(http://www.fas.org/irp/world/chile/allende.htm。4月19日アクセス)

これ以降米国は、政権転覆を行うにあたって、自らの軍事力を用いるようになる。1980年代にレーガン(Ronald Reagan)米大統領が行った1983年のグレナダ侵攻(注4)とブッシュ父(George H.W. Bush)米大統領が行った1989年のパナマ侵攻(注5)がそうだ。

(注4)グレナダの容共・親キューバのビショップ(Maurice Bishop)首相が、彼より急進的な勢力によって殺害されたことを契機として、在グレナダ米国人の保護を名目に、東カリブ海諸国及びグレナダ総督(英国女王の代理たる名目的元首)の要請を受けた形で、米軍が軍事介入し、在留キューバ軍等を撃破し、グレナダを一時占領したhttp://www.onwar.com/aced/data/golf/grenada1983.htm。4月19日アクセス)。

(注5)パナマの独裁者ノリエガ(Noriega)が対米戦争状態を宣言し、平服の米海兵隊員がパナマ軍兵士達に殺害されると、米国は、ノリエガの麻薬取引容疑での逮捕、在パナマ米国人の生命財産の保護、パナマにおける自由の回復を標榜してパナマに軍事介入し、パナマ軍を撃破し、パナマを占領し、更にノリエガを拘束した(http://www.onwar.com/aced/data/papa/panamaus1989.htm。4月19日アクセス)

では、今度は時代をさかのぼってみよう。

(続く)