太田述正コラム#11480(2020.8.18)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第二章以下』を読む(その37)>(2020.11.9公開)

 「・・・1187<年>、畠山重忠<(注107)(前出)>が謀反の建議をかけられ、その意志のないことを記す起請文(誓約にそむく時は神仏の罰をこうむる旨を記す文書)の提出を求められた。

 (注107)「畠山氏は坂東八平氏の一つである秩父氏の一族で、武蔵国男衾郡畠山郷(現在の埼玉県深谷市畠山)を領し、同族には江戸氏、河越氏、豊島氏などがある。多くの東国武士と同様に畠山氏も源氏の家人となっていた。父の重能は平治の乱で源義朝が敗死すると、平家に従って20年に渡り忠実な家人として仕えた。
 1180年・・・8月17日に義朝の三男・源頼朝が以仁王の令旨を奉じて挙兵した。この時、父・重能が大番役で京に上っていたため領地にあった17歳の重忠が一族を率いることになり、平家方として頼朝討伐に向かった。23日に頼朝は石橋山の戦いで大庭景親に大敗を喫して潰走。相模国まで来ていた畠山勢は鎌倉の由比ヶ浜で頼朝と合流できずに引き返してきた三浦勢と遭遇。合戦となり、双方に死者を出して兵を引いた。26日、河越重頼、江戸重長の軍勢と合流した重忠は三浦氏の本拠の衣笠城を攻め、三浦一族は城を捨てて逃亡。重忠は一人城に残った老齢の当主で、母方の祖父である三浦義明を討ち取った(衣笠城合戦)。
 9月、頼朝は安房国で再挙し、千葉常胤、上総広常らを加えて2万騎以上の大軍に膨れ上がって房総半島を進軍し、武蔵国に入った。10月、重忠は河越重頼、江戸重長とともに長井渡しで頼朝に帰伏した。『源平盛衰記』によると重忠は先祖の平武綱が八幡太郎義家より賜った白旗を持って帰参し、頼朝を喜ばせたという。重忠は先陣を命じられて相模国へ進軍、頼朝の大軍は抵抗を受けることなく鎌倉に入った。
 重忠は御家人に列し、頼朝の大倉御所への移転や鶴岡八幡宮の参詣の警護などの『吾妻鏡』の記事に重忠の名が見える。また、・・・1181年・・・7月の鶴岡八幡宮社殿改築の上棟式で工匠に馬を賜る際に源義経とともに馬を曳いている。この頃に重忠は頼朝の舅の北条時政の娘を妻に迎えている。だが、この時期の重忠は父の重能がいまだに平家方にあったこともあり、必ずしも頼朝の信任を得ていなかったとする見方もある。また、同じ秩父一族の中でも小山田氏が重用されて畠山氏は待遇面で格差をつけられ、更に平家郎党期に惣領の地位を占めていた河越氏は更に冷遇されて後に誅殺されるなど、頼朝が一族間で待遇に格差をつけて内部分断を図ったとする見方もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%A0%E5%B1%B1%E9%87%8D%E5%BF%A0

 この時重忠は「自分のような勇士が、武威を笠に着て人びとの財宝などを奪い取り、世渡りの術としているという虚名が広がるようであれば、それはもっともな恥辱である、謀反を企てようとしているという噂なら、かえってえ名誉というべきである」と述べ、「ただし源家の当代(頼朝)を武将の主と仰いでからは、全く二心(ふたごころ)はない。重忠に、偽りがないのは、(頼朝が)かねてからご存じである」と主張し、起請文の提出を拒んでいる(『吾妻鏡』同年)」(165~166)
 「謀反の噂を立てられるのは武士の名誉」という言葉は、武士の自立意識をもっとも先鋭な形で表現しているが、それは重忠のみの思想ではない。
 彼らはじつに自尊心が強く、御し難い存在である。」(165~166)

⇒重忠は、在京の父親に従って関東で頼朝と戦い、その過程で自分の祖父まで殺害した後、父親に反旗を翻して頼朝に帰順したところの、謀反の前科一犯の脛に疵持つ人物であり、頼朝に帰順したのは、武家の間で、(次回の東京オフ会「講演」原稿で詳述するつもりですが、)源氏>平氏>藤原氏、という序列感覚が存在したところ、義朝死去後、関東において、地縁的・血縁的に近い有力な源氏の武家がいなかったために、平氏の中央における最有力の存在であった平家に畠山氏は仕えていたけれど、平家と畠山氏当主との間に、土地を媒介とする御恩と奉公の封建契約があったわけではないので、重忠は、本来の序列感覚に従い、頼朝に帰順することができたところ、実際そうした、と、想像されるわけです。
 それに対し、帰順後、(典拠は省くけれどこれは蓋然性が高いと思っていますが、)頼朝と重忠は封建契約関係に入ったと思われるのであり、重忠は、単に、封建契約関係を伴わない主従関係から離脱するのは自由だが、封建契約関係を伴う主従関係から離脱することはありえない、と主張しているだけでしょう。
 従って、高橋の本件についての説明ぶりについてもまた、疑問符を付けざるをえません。
 それにしても、そんな重忠が、実朝が将軍の時に、北条氏の陰謀で、謀反のでっちあげ嫌疑をかけられて討たれ殺害される(畠山重忠の乱)(注108)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%A0%E5%B1%B1%E9%87%8D%E5%BF%A0%E3%81%AE%E4%B9%B1
のですから、鎌倉時代がいかに物騒な時代であったかが分かろうというものです。(太田)

 (注108)畠山重忠の乱が終わった後、今度は北条政子と義時によって北条時政とその後妻の牧の方が追放された(牧氏事件)後で、「重忠旧領<のうち論功行賞で武士達に分配した後残っていたもの>と畠山の名跡は足利義兼の庶長子・足利義純が重忠の未亡人(時政女)と婚姻し、継承した。これによって畠山氏は源姓として存続することになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%A0%E5%B1%B1%E9%87%8D%E5%BF%A0 前掲

⇒「注108」から、武家たる源氏と平氏(と藤原氏)相互間の風通しが極めて良かったことが窺えます。(太田)

(続く)