太田述正コラム#11492(2020.8.24)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第二章以下』を読む(その43)>(2020.11.15公開)

 「・・・近世半ば以降は、儒教が諸学・所思想と習合しつつではあるが、初めて社会に一定の浸透を見た時代である。

⇒「社会」とか「一定の浸透」とかが何を指すかにもよりますが、「明経道<は、>・・・律令制下の・・・大学寮の一学科であるが、一般科ないし予科的性格をも<っていて、支那>の経学(けいがく)を修めるもので、職員令(しきいんりょう)に規定された400人の学生すべてがここに所属する。・・・『周易(しゅうえき)』『尚書』『周礼(しゅらい)』『儀礼』『礼記』『毛詩』『春秋左氏伝』『孝経(こうきょう)』『論語』などを学び、律令官人に必要な儒教思想を身につけることを求められた。・・・1年の終わりには大学頭、助の試を受け、大義八条を問い、二経以上に通ずるものは官吏に推薦された。明経道を専攻的に学んだ著名人に空海、藤原三守(みもり)、忠貞王などが<いる>」
https://kotobank.jp/word/%E6%98%8E%E7%B5%8C%E9%81%93-139753
ということだけをとっても、「儒教が・・・近世半ば以降・・・初めて<日本の>社会に一定の浸透を見た」という記述はいかがかと思います。(太田)

 そこでは、武の対立物であった儒教が、皮肉にも武士の治者としての自覚をうながす教養体系として機能し始めた。

⇒「儒教が・・・武の対立物であった」かどうかは下の囲み記事を参照していただきたいが、仮にですが、そうであったとすればなおさらのこと、儒教ならぬ「宋学が・・・近世半ば以降・・・初めて<日本の>社会に一定の浸透を見た」ことは確かであるところ、同じ時代に、支那の清では、「哲学的思弁を主とする「宋学」・・・を排斥し,考証学としての漢学<、すなわち、本来の儒教、>が復興<する>」
https://kotobank.jp/word/%E6%BC%A2%E5%AD%A6-48496
のですから、(小中華意識に基づき、宋学中の朱子学を墨守し続けた李氏朝鮮(典拠省略)に結果として倣った形になった)徳川幕府は、武家政権であったことも勘案すれば、頗るつきに異常であった、ということになりそうですね。
 百歩譲って、昌平坂学問所で幕臣等に文官教育を行ったこと自体は是としたとしても、あろうことか、宋学中の(万物一体の仁の考え方を内包した)陽明学の方ならまだしも、「哲学的思弁<(形而上学(太田))>」に偏していた朱子学を教育したことは、文官教育にすら資していたとさえ言えないのであって、殆ど時間のムダに等しかった、と断じるべきでしょう。(太田)

 その意味で、儒教によって自分を厳しく律する武士の姿は、実像というより、時代の要請が生んだ彼らの努力目標だった。・・・
 <これに反発し、>高遠藩の藩医兼藩儒であった中村中倧<(注122)>のような儒者は、「我が国は武国で、おのずから武士道がある。

 (注122)1778~1851年。「<1849>年<、>開墾事業の指導を誤解され領内黒河内に流された。著作に郷土資料の集大成「蕗原拾葉(ふきはらしゅうよう)」がある。」
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E4%B8%AD%E5%80%A7-1085755

 これは儒学の道の助けを借りず、仏の心を用いない、我が国自然の道である」(『尚武論』)と、武士の倫理道徳から儒教を引きはがす論を主張するようになるわけである。」(194~196)

⇒武士そのものが、聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想によって生み出されたものなのですから、中村が主張するがごとく、武士「道」が「我が国自然の道である」、はずがありません!(太田)

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[武の対立物たる儒教?]

 「五経の一つである『礼記』(らいき)祭法に<、周の>「文王は文治をもってし,武王は武功をもってす」とあ<り、文治とは>,儀礼,法制,教化などの整備充実を通じて社会秩序の安定を維持しようとする政治を行うこと。」
http://www.historist.jp/word_w_fu/entry/044880/
であるところ、『礼記』は、文と武の間に優劣を付けているわけではない。
 また、「「文事ある者は必ず武備あり」という言葉が『史記』には記されている<ところ、>文武は一方に偏ってはならないという意味である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E6%AD%A6%E4%B8%A1%E9%81%93
 また、「『旧唐書(クトウジョ)<には、>・・・戦時には朝廷から出て将軍として軍を指揮し、朝廷の中にいれば宰相として力を発揮する意から・・・文武の才を兼備した人物のたとえ<として、>・・・出でては将、入りては相<(しょう)という言葉が出てくる。>」
https://www.kanjipedia.jp/kotoba/0003215100
といった具合に、儒教を含むところの漢人文明総体においても、本来的には文と武の間に優劣は付けられていない。
 にもかかわらず、支那の諸王朝において、文科挙に比して武科挙の採点は甘く、「伝統的に武官はかなり軽んじられており、同じ位階でも文官は武官に対する命令権を持っていた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%91%E6%8C%99
わけだ。
 一体全体、どうしてそんなことになってしまったのかについては、私の試論を以前開陳したことがある(コラム#省略)が、繰り返すけれど、儒教そのものが、文の方を武よりも重視した、ということはないのではないか。
 とすれば、高橋の武の対立物たる儒教観や、高根秀人年(注123)の下掲のような主張↓、には大きな疑問符が付く。

 (注123)たかねひでと(1954年~)。慶大法卒。真儒協会会長。
https://jugaku.net/aboutus/index.htm

 「儒学は徳治主義・文治(王道)政治の教えです。 歴史的に戦乱を武力的に統一した後、英主が内治充実に採用し平和繁栄の時代を築いています。
 <支那>において、「秦」は法家思想を採用し 永い戦国の時代を統一しました。 が、わずか15年で亡びました。 続く 「漢」(武帝)は 儒学を採用、国教(官学)とし、前後400年にわたり繁栄しました。 唐(太宗)も 約300年、明(洪武帝)も約280年にわたり栄えます。
 朝鮮も高麗 [こうらい] を倒した李朝(太祖)が 儒学(朱子学)を官学とし 約500年間続きます。 日本も徳川家康が幕府統治に儒学(朱子学)を採用して後、文治主義が根づき 約260年間 平和に文化が栄えます。」
https://jugaku.net/jugaku/teaching.htm

 縄文性一本やりの戦後日本で生きてきたからこそ、お二人のような特異な儒教観が生まれたのかもしれない。
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(続く)