太田述正コラム#11498(2020.8.27)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第二章以下』を読む(その46)>(2020.11.18公開)

 「・・・近代化の遂行主体は、・・・薩摩・長州などの藩閥政治家であったが、その専制ぶりを自由民権派に有司<(注128)>専制<(注129)>と批判される。

 (注128)「その職を行なうべき官司。また、そこに属する官人。官署。官吏。」
https://kotobank.jp/word/%E6%9C%89%E5%8F%B8-650679
 (注129)「明治6年10月の政変(1873)から明治14年の政変(1881)にいたる過程で,藩閥色は中央,地方ともに濃くなったが,この間,いわゆる征韓論の分裂や自由民権運動の展開と対応して,この藩閥色は薩長を中心に強められた。すなわち,木戸(1877),大久保(1878)の没後は,岩倉と結んだ伊藤および井上馨,山県有朋(ともに長州),西郷従道,黒田清隆,松方正義(以上,薩摩)らの薩長出身者によって政府は牛耳られ,自由民権運動はこれを〈有司専制〉と称して攻撃し,また,初期議会における民党も,この藩閥政府と対決しようとした。議会における民党の優勢に対し,藩閥政府は〈常に一定の方向を取り,超然として政党の外に立つ〉という,いわゆる超然主義を唱えた。」(『世界大百科事典第2版』より)
https://kotobank.jp/word/%E6%9C%89%E5%8F%B8%E5%B0%82%E5%88%B6-650722

 そのため彼らの要求である憲法制定、国会開設を受け入れざるをえなくなり、内閣制度の採用(1885年)、大日本帝国憲法制定(1189年)、国会開設(1890年)によって、天皇中心主義と議会制が矛盾しながら結びついている独特な立憲君主制国家ができあがった。・・・

⇒「内閣<や>・・・憲法<や>・・・国会」が、当時その大部分が(権力を手放していない)君主を戴く国であったところの、欧米諸国、の中で、君主主義(天皇中心主義)と矛盾しながら結びついていた、というバカげたことを高橋は言っているに等しいわけですが、そういう自覚のカケラすら高橋にはないのでしょうね。
 また、これらが「自由民権派・・・の要求・・・を受け入れざるをえなくな」った結果導入された、との高橋の主張についても、(典拠があるはずがない、)ナンセンスである、と言わざるをえません。
 というのも、憲法については、不平等条約改正のために日本が欧米化を決意していることをアピールする目的から制定する必要があり、また、内閣や国会の設置は、この両者が、欧米諸国全てに存在しており、それら諸国の総動員体制の核心機構だったからです。(コラム#省略)
 もとより、内閣(首相)や国会の権限や、それらの導入のタイミング、について、議論の余地があったことは否定しませんが・・。(太田)

 明治14年の『日本帝国統計年鑑』<から、>・・・中央・府県道の官吏に士族<(注130)>が占める割合は70パーセント弱を占め、郡区町村吏を含めた全官職に占める割合でも、約40パーセントに達する<ことが分かる。>

 (注130)「士族(しぞく)は、明治維新以降、江戸時代の旧武士階級や地下家、公家や寺院の使用人のうち、原則として禄を受け取り、華族とされなかった者に与えられた身分階級の族称である。士族階級に属する者には、『壬申戸籍』に「士族」と身分表示が記され、第二次世界大戦後1947年(昭和22年)の民法改正による家制度廃止まで戸籍に記載された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AB%E6%97%8F

 この数字には約3万人と推定される士族の小学校教員は含まれておらず、これを加えると官職保有戸数は全士族戸数の23パーセントに達すると推計<され>る。
 これは士族人口のうち少なくとも4~5パーセントが官職にあったことになる。
 このように明治政権は、実質的には士族の政権であり、旧武士の政権であった。・・・
 <もう少し続けるが、>官吏・・・輩出率・・・でいえば、明治7年の士族一万人あたり64.1人、平民は0.7人、明治31年には士族136.4人、平民4.6人という数字がある。
 両者の差の大きさもさることながら、明治も進むに従って士族のなかで官吏になるものの数が増大している点に注目したい。
 士族にとって魅力的であった就職先は、ほかに警官・軍人・教員がある。
 これも武士としてつちかった名誉意識を損なわず、俸禄に近い威信と報酬が序列化した給与システムによって、生計を維持できる可能性がある職業である。
 警官の場合、明治13年(1880)頃で、総数約2万5000人のうち、8割前後が士族であったといわれる。
 輩出率でみると士族1万人のうち100人が警官であった割合になろう。
 平民の警官輩出率が1万人あたり1.5人程度であるから、その開きは極めて大きい。
 また軍人は、もとは武という職業を独占していた士族にとって、自分たちが就くべき職業という意識であっただろう。」(214~216)

⇒軍人については、職業軍人中、将校と下士官を区別する必要があり、将校の士族占有率/排出率、とりわけ、陸士/海兵卒将校のそれ、を高橋には、紹介して欲しかったところです。(太田)

(続く)