太田述正コラム#11506(2020.8.31)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第二章以下』を読む(その50)>(2020.11.22公開)

 「・・・軍隊は通常、外的脅威ないし大規模な内戦・内乱に対処することを理由に強化される。

⇒「通常」という避雷針を立ててはいるけれど、高橋は、ここが既に根本的に間違っています。
 それじゃあ遅過ぎるのであって、「まともな軍隊は、内外の「潜在的」脅威に対処することを理由に強化される」のですからね。
 これは、典拠を付す必要もない、常識です。(太田)

 その事実がなければ、脅威を誇大に煽り立てることさえやってのける。

⇒恐らく、高橋は、潜在的脅威に対処しようとすること、が、すなわち、脅威を誇大に煽り立てること、だと思い込んでいるのでしょうね。(太田)

 日本の平安時代は、その初期にエミシの脅威を口にしたが、それが一段落すると基本的に「平安」な時代が続いた。

⇒日本で軍隊の本格的な「強化」計画が構想されたのは、厩戸皇子の時だった、といったようなことは、高橋には想像もできないのでしょうねえ。
 そうである以上、潜在的脅威が、白村江の戦いにおいて、早くも顕在化し、日本が大敗北を喫したことに対する、日本の支配層の衝撃の大きさが分かるワケがないのであって、そうだとすると・・。ウンザリ。(太田)

 将門の乱も、与えた精神的なショックの大きさはともかく、国家が鎮圧に乗り出す以前に実質的にかたがついた。
 前九年・後三年合戦は、河内源氏によって意図的に引き起こされた私戦の拡大版にとどまり、はるか北方のみちのおく(陸奥)・いでは(出羽)でのできごとであった。
 一部の書物などは、摂関期に武士が成長したかのように書いているが、こうした外的・内的環境のもとでは、それは誇張といわざるをえない。

⇒誇張でも何でもありません。
 軍事を軽視し、忌避する、日本の戦後国史学者達の中でも、高橋は特にスジが悪い部類に属するのでは?、と言いたくなります。(太田)

 軍事的脅威が自覚されていないのに、どうして武士が成長してゆくというのか。・・・

⇒軍事/安全保障を放擲した日本の戦後は、日本史の中では極めて異常な時代である、という認識が、日本史学者であるにもかかわらず、高橋には皆無と見えます。
 まことに不思議な人物です。(太田)

 滝口<(注136)>や大内守護<(注137)>に期待された役割の一つが、内裏や王家を襲う各種のモノノケ・精霊を撃退する「武」という呪力だったとすれば、これらの武士は験力・法力・呪力あらたかな護持僧や陰陽師などと、ある種共通した存在と位置づけられるだろう。・・・

 (注136)「平将門も当時左大臣だった藤原忠平の家人として仕え、その推挙により滝口となり、滝口小二郎と名乗っていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%9D%E5%8F%A3%E6%AD%A6%E8%80%85
 (注137)おおうちしゅご。「平安中期~鎌倉前期,大内(大内裏中の内裏)警衛を管轄する職称。起源は明瞭でないが,《尊卑分脈》に源頼光を〈大内守護〉とするのが初例。以来頼光の子孫の世襲になったと思われ,平安末期源頼政の在職が確認される。ついで木曾義仲の在京中には,頼政の子頼兼が大内裏の守護にあたった。鎌倉幕府成立以後も頼兼の大内守護は継続されたが,1188年・・・頼兼は,自己の兵力のみでは任に耐えぬと幕府・朝廷に訴え,北陸の御家人が添えられた。・・・
 承久の乱の際,大内守護であった頼政の孫頼茂が院の軍勢に襲われて自殺。以後大内守護の名は見えず,廃絶したと考えられている。」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E5%86%85%E5%AE%88%E8%AD%B7-39022 

 従来歴史研究者は、武士のこうした機能にはまったくといってよいほど関心を持たず、彼らを武士の範疇から事実上締め出してきた。
 それは、近代合理主義の陥穽であるとともに、武士政権の成立をもって歴史の前進とする理解に立っていたからで、そうなればどうしても、のちに政権を握ることになる河内源氏の発展などに関心が集中する。
 当然、天皇に密着した滝口のようなちんけな存在など目にとまりにくく、同じ目線からは、治天の君(院)と結びついて河内源氏を追い越していった伊勢平氏や平清盛が樹立した政権(六波羅幕府)すら、脇道にそれた王朝の走狗、貴族的で未熟な政権との否定的な評価しか出てこなかったのである。」(254~255、260~261)

⇒滝口が「ちんけな存在」だったとしても、平将門のような、(結果としてですが、)坂東の武士の卵達の錬成に大いに貢献した人物等を生み出したわけですし、その子孫が、それが「ちんけな存在」だったかもしれないけれど、大内守護、を担い続けることとなったところの、摂津源氏の祖たる源頼光にしても、「同じく摂関家に仕え武勇に優れた弟の<河内源氏の>頼信と共に後の清和源氏の興隆の礎を築<いた>」人物です
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E5%85%89
から、高橋の筆致にはひっかかるものがあります。
 いずれにせよ、滝口や大内守護のツワモノたちについて、『武士は験力・法力・呪力あらたかな護持僧や陰陽師などと、ある種共通した存在と位置づけられる』にもかかわらず、「従来歴史研究者<が>・・・武士の範疇から事実上締め出してきた」という高橋の主張については、私としては、『』内を否定こそしないけれど、そもそも「」内的な認識を全く持っていません。(典拠省略)
 それはそれとして、滝口や大内守護については、次の東京オフ会「講演」原稿でも取り上げるつもりですし、院政や平家の歴史上の位置づけについても同様です。(太田)

(続く)