太田述正コラム#11518(2020.9.6)
<大津透『律令国家と隋唐文明』を読む(その3)>(2020.11.28公開)

 「・・・603<年>・・・冠位十二階を施行し<たのは、>・・・広くいえば律令制のはじまりとして位置づけることができるが、・・・朝鮮半島の影響をうけて・・・さだめたもので、翌年正月一日にはじめて冠位を諸臣に賜ったように、元日の朝賀など朝廷儀礼の整備の一環である。
 ちなみに推古15年(607)には「大礼(だいらい)小野臣(おみ)妹子を大唐(もろこし)に遣(つか)はす」、『隋書』には「小徳阿輩台」「大礼哥多●<(田偏に比)>」が裴世清<(注9)>を迎えたとあり、外交の場で冠位は不可欠であったので、第一回遣隋使が官位制導入のきっかけだった可能性も高い。・・・

 (注9)「生没年不詳。唐の太宗の諱(いみな)である世民の一字〈世〉を避けて裴清とも記される。・・・裴氏は六朝(りくちょう)時代以来の名族で、・・・随<の>・・・秘書省文林郎(学芸文筆の名誉職),鴻臚寺掌客(対外折衝の実務官)だった。・・・帰国後,唐王朝において対外関係の政務を監査する主客郎中,さらに江州(江西省九江市)を治める長官である江州刺史となった。」
https://kotobank.jp/word/%E8%A3%B4%E4%B8%96%E6%B8%85-112880

⇒冠位制の導入について、大津は、一、朝鮮半島の(どの国のいかなる?(太田))影響、二、朝廷儀礼の整備の一環、三、<対隋>外交の場で<の>・・・不可欠<性>、と、三つも理由を挙げていますが、これは、彼に、絞ったり軽重を付けたりする自信がなかったからだろう、と「好意的」に受け止めたいと思います。
 もちろん、冠位制を「広くいえば律令制のはじまりとして位置づけること」などできない、と私が考えていることはご承知の通りです。(コラム#省略)

 <604年に制定された>憲法十七条<(注10)の>・・・十六条<の>・・・「民を使ふに時を以てするは、古(いにしえ)の良き典(のり)なり」<(注11)>・・・というのは、『論語』学而編の一節の引用だが、このように中国の古典が参照されるということが、この時代の政治課題が、中国文明の吸収であったことを物語っている。」

 (注10)「聖徳太子の真撰かどうかは別にしても、推古天皇8年(600)に初めて遣隋使を送った倭(やまと)王権が、<支那>の先例(西魏の二十四条新制・十二条新制、北周の六条詔書、北斉の五条詔書など)に倣って、<支那>風の道徳的規範を制定することに迫られ、国内の中央豪族をはじめとして、隋や朝鮮三国(高句麗・新羅・百済)にまでそれを誇負(こふ)することをねらったものと思われる。それが、おそらく十七条憲法の原形をなそう。17の数については、西域やインドを含めた世界史的観点からの検討が、これからなされなければなるまい。ただし、当時、この憲法が国内でどれほどの効果を発揮したかは、すこぶる疑わしい。むしろ、対外的な効力を評価すべきかもしれない。にもかかわらず、7世紀後半からの天皇制律令国家形成にあたって、その先取り的な意味をもっていたことは結果的に認められてよい。後代に及ぼした影響も大きい。摂関家の政治の一つのよりどころになったり、武家社会の御成敗式目、建武式目、公家諸法度などにも、影響がみられる。」(新川登亀男)
https://kotobank.jp/word/%E5%8D%81%E4%B8%83%E6%9D%A1%E6%86%B2%E6%B3%95-77028
 新川登亀男(1947年~)は、早大文卒、同大修士、同大博士後期課程満期退学、大分大、日本女子大を経て、早大文教授、名誉教授。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%B7%9D%E7%99%BB%E4%BA%80%E7%94%B7
 (注11)十六条全文:「民を使うに時を以てすとは、古くからある良い教訓である。故に冬の季節に暇が有れば民を使役することも可なれども、春から秋にかけては農耕・養蚕の時節なるが故に民を使役してはならない。民が農耕せざれば食うものが無く、民が養蚕せざれば着るもの無し。」
http://www.kokin.rr-livelife.net/classic/classic_oriental/classic_oriental_521.html
 『論語』学而編の一節:「孔子が言った。国を治めるに道あり。事を為すに敬を存して信ぜられ、用いるに礼節存して人を愛し、民を使うに時宜を以てす、と。」
http://www.kokin.rr-livelife.net/classic/classic_oriental/classic_oriental_734.html

⇒十七条憲法の制定について、日本が既に支那から十分学んでいるということの顕示であるとする的な新川に対し、大津は遣隋使の成果の反映でもあるとしているようにも受け止められますが、本件に関しては、以前に書いたこと(コラム#省略)から想像できるように、私は、どちらかと言えば、新川説に共感を覚えます。
 いずれにせよ、遣隋使の派遣目的に関し支那文明総体継受的な説を唱える大津と違って、私は、十七条憲法に盛り込まれていないところの、軍事について、隋に至る支那諸王朝の軍事政策に係る情報収集、及び、日本が収集されたこの情報も踏まえて軍事改革を行った後に日本に生まれるであろう縄文的弥生人達の縄文性毀損の回復手段を仏教に求めるための情報収集、が、遣隋使を日本が派遣した真の目的である、と見ているわけです。
 なお、私は、十六条は、形の上では『論語』学而編の一節を引用しているけれど、趣旨は異なっていて、後者は、統治の手段(税、労役等)を提供させているところの民からの過度の搾取を禁じただけであるのに対し、前者は、(人間主義に基づくところの、)民のための統治を宣明したものである、と考えていることを付言しておきます。(コラム#省略)

(続く)