太田述正コラム#11526(2020.9.10)
<大津透『律令国家と隋唐文明』を読む(その7)>(2020.12.3公開)

 「・・・皇極四年(645)6月・・・のクーデターを干支<(注19)>をとって「乙巳<(いっし)>の変」と呼ぶ。・・・

 (注19)「干支紀年の日本への伝来時期はよくわかっていない。日本に<支那>の暦本が百済を通じて渡来したのは欽明天皇15年(554年)とされるが、実際には、それ以前にさかのぼる可能性が高い。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B2%E6%94%AF

 <この変の後、>中央集権をめざして国制改革が行なわれたことは否定できないだろう。・・・
 律令制の導入が確かにはじまっている。・・・

⇒この変の原因として「改革の主導権争いを巡る蘇我氏と皇族や反蘇我氏勢力との確執」と見る説・・0説としよう・・があるよう
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%87%E6%88%91%E5%85%A5%E9%B9%BF
ですが、私はこの説乗りであり、それは、この変に遡るところの、入鹿が「山背大兄王ら上宮王家の人々を自殺に追い込んだ」(上掲)ことの説明にもなる、と考えています。
 問題は、「改革の主導権争い」の中身です。
 手がかりとなるのは、「評<(こおり)・・後の郡(太田)・・>という・・・地方行政組織の設置、と、その評の官人の任命が、<この変後に即位した>孝徳天皇の大化年間に全国で行なわれたこと」(28)くらいしか、はっきりとしているものがないことです。
 このことを踏まえ、隋による支那統一とその後の隋と唐の朝鮮半島進出の動きに対抗すべく、日本の軍事改革を目指したのは、蘇我本家側も中大兄皇子側も同じだったものの、前者は一層の中央集権化、後者は中央集権化の動きを逆転させた地方分権化、によって、それぞれ、それを行おうとしたが故に対立した、というのが、0説を私が敷衍して唱え始めているところの、新説、であるわけです。(注20)(太田)

 (注20)乙巳の変のウィキペディアでは、0説が紹介されておらず、それ以外の以下の4説が紹介されている。
 各説を私なりに表現すると次の通りだ。↓
 一、軽王子(孝徳天皇)による反蘇我本家権力奪取説、二、高句麗における淵蓋蘇文のクーデターの刺激を受けた説、三、唐の脅威下、朝鮮半島三国との協調路線を従来の百済一辺倒路線に戻そうとした説、四、実子の中大兄皇子による母の権力奪取説、の4つだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%99%E5%B7%B3%E3%81%AE%E5%A4%89
 一、二、四の各説と、0説ないし三説と、は、次元が違うので、両立しうることに注意。

 『日本書紀』は、・・・646<年>9月に、・・・「任那の調」を諦めた<とあるところ、これは>新羅に対する譲歩であり、親新羅という外交方針<が採られたこと>を示している。
 このことは、同時に律令国家が朝鮮半島の支配を諦め、日本列島内を統治するものになったという点でも大きな意味がある。・・・

⇒いくらなんでも、645年の段階で、大津のように当時の日本を「律令国家」と形容するのはおかしいですし、そもそも、(当時、既に実質的に天智朝になっていたわけですが、)中大兄皇子は「律令国家」を目指してなどいなかったと私は考えているのですから、なおさら大津に異議申し立てをしたいですね。
 但し、中大兄皇子が、朝鮮半島からの撤退政策を進めた、といういのはその通りでしょう。(太田)
 
 663年・・・8月・・・<倭は、>白村江の戦いで・・・唐軍に敗れた・・・。

⇒大津は、この戦いに敗れた日本が、唐に一時的に占領された、という説(コラム#省略)に言及していませんが、是非とも、批判する形でもいいので、一言、触れて欲しかったところです。(太田)

 <中大兄皇子の即位後の>天智朝の施策でもっとも重要なのは、・・・670<年の>・・・庚午年籍<(注21)>・・の作成である。・・・

 (注21)こうごねんじゃく。「全国的規模のものとしては最古の戸籍。戸籍は30年保存を原則としたが、この台帳は永久保存扱いにされた。・・・戸籍は地域の住民を登録して課税するために,朝廷の直轄領では渡来人を使って6世紀から作成されていたといわれ,646年・・・の改新詔で・・・全国を直轄領として全国的な戸籍を作成する方針をたてたようである。しかし現実には,豪族の勢力がまだ強く残っていてその私有民をもれなく登録することは困難であり,また文字を使うことのできる役人も数少なく,実現はなかなか容易ではなかった。」
https://kotobank.jp/word/%E5%BA%9A%E5%8D%88%E5%B9%B4%E7%B1%8D-62048

 庚午年籍は、調庸の賦課や兵士の徴集に役立ったはずで、・・・評制施行にはじまる、地方支配の強化と徴税の再編の到達点といえるだろう。
 しかし庚午年籍<(注22)>により氏の所有が認められた「民部・家部」は課税の対象外であって、「部曲」(民部)が廃止されて公民になるのは天武朝になってからだった。」(27~29、37、45)

 (注22)「天智天皇3<年>に行われた内政改革。・・・冠位十九階制を冠位二十六階制に改定して、下級官僚の階数を増加するとともに、・・・諸氏の私民的支配に、国家権力による統制の手を加え、その認定と登録とを行い、次の段階での収公の前提にした<(>と理解すべきであろう。<)>・・・
 675年に部曲(かきべ)(民部)は収公され、家部は律令(りつりょう)制下の氏賤(うじのせん)、家人(けにん)になって存続した。」
https://kotobank.jp/word/%E7%94%B2%E5%AD%90%E3%81%AE%E5%AE%A3-1290678

⇒私は、「次の段階での収公の前提」としてではなく、(私の言う)聖徳太子コンセンサスに基づき、日本の封建制化(地方分権)の前提として、「諸氏の私民的支配・・・の認定と登録とを行<うことで、>」諸氏の所有地の荘園化を図ったものである、と、解しています。(太田)

(続く)