太田述正コラム#11528(2020.9.11)
<大津透『律令国家と隋唐文明』を読む(その8)>(2020.12.4公開)

 「・・・天智3年<(664)>の冠位二十六階は、推古朝の冠位十二階が発展したものだが、天武14年(685)に定めた諸臣四十八階(浄御原令も同じ)は大宝令の位階制に直接つながり、大きな性格の差がある。
 冠位二十六階では、官位相当制もなく、浄御原令によってはじめて官位相当制(=官位令)が作られ、考選<(注23)>という勤務評定と昇進のシステムが作られたのだろう。・・・

 (注23) 「官人の功績、能力などにより叙位すること。」
https://kotobank.jp/word/%E8%80%83%E9%81%B8-2036313

 四十八階制は大宝令の正一位~少初位制に連続し、天武14年以降4年または6年おきに成選叙位(毎年の考を一定年数積んで最とあわせて位階が進む)が行なわれていて<(注24)>、<701年に制定された>大宝令制へつながっていく。

 (注24)「毎年、各官司の長(外長上・外分番は所属国の国司)8月末までに・・・<部下の一年間の>勤務状況を審査して評定原案を作成し、各官人に読み聞かせた上で、官司単位で報告書である考文(こうぶん)を作成する。内長上は上上・上中・上下・中上・中中・中下・下上・下中・下下の9段階評価が行われた。この際に評定の基準となったのは、「善」と「最」である。善とは四善とも称された儒教的価値観に基づく4つの事項(徳義有聞・清慎顕著・公平可称・恪勤匪懈)のことで選叙の対象となる中中以上になるためにはこの要素を必要とした。最とは職務の達成基準を意味しており、全部で42の項目があった。私罪(公務以外の罪)があれば中下または下下、公罪(公務における罪)があれば下下と評価され、解官の対象とされた。郡司・軍毅は上・中・下・下下の4段階(下下は解官)、その他の外長上・内分番・外分番は上・中・下の3段階で評価された。
 その後、考文と参考資料を京官と畿内諸国は10月1日、その他の諸国は11月1日までに文官は式部省、武官は兵部省に送付した。ただし、前者は・・・709年・・・に、後者は・・・713年・・・に弁官が受付、その後両省に送付されることになった。その後、中央にて最終決定が行われるが、六位以下は式部省・兵部省にて、四位・五位は太政官にて審議の後に天皇の裁可を仰ぎ、三位以上は天皇の勅裁(大臣は上日の日数のみが考課の対象とされる)によって決められた。
 成選に至った場合、所属官司・国司は選文を作成し、期間中全てが中中もしくは中であった場合を標準的な評価として1階昇叙させ、平均して中中・中よりもマイナス評価であった場合、昇叙は見送られプラスの範囲が一定に達するごとに昇叙する位階は1階ずつ増えていった(ただし、内分番・外長上・外分番は最大3階まで)。ただし、五位以上の昇叙および成選の結果叙爵の対象となる(五位以上に至る)昇叙、成選の結果4階以上の昇叙の場合には全て天皇への上奏と裁可を必要としていた。
 奈良時代前期(8世紀前半)までは考課の諸原則が基本的に履行されていたが、次第に先例重視の傾向が強まり、特に五位以上の昇叙および叙爵については全くの政治的理由で行われるようになった。更に平安時代中期(10世紀)以後には六位以下の形骸化が進んだため、制度の実質を喪失した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%83%E8%AA%B2

⇒「注24」から、考課制は、天武朝の唐流律令制の一環として導入され、復活天智朝によって、律令制が形骸化される一環として形骸化されていった、ということになりますが、実は、現在・・というか、私が勤務していた頃で言えば・・の日本の中央官庁でも同様の勤務評定が行われているものの、その運用は全く形骸化しています。
 評定対象者の(上級職の場合は公務員試験成績や)それまでの補職/補任履歴、そして、上司筋から届く評定対象者の評判等を踏まえ、人事担当部局/者が結論を出し、その結論が評定者に伝えられ、その結論通りの評定が当該評定対象者に下される、というやり方です。
 (評定内容が対象者に開示されることはありません。)(太田)

 ただしここで「氏姓大小」が基準に入っていることは大宝令にみえない特色である。
 前年<の684年>に真人(まひと)・朝臣(あそん)・宿禰(すくね)以下の八色(やくさ)の姓(かばね)を定めたこともあわせ、実際には旧来のウヂ・カバネの族制的原理をとりこみながら官僚制が導入されたことを示すのだろう。」(44、56)

⇒推古朝の冠位十二階と天武朝の位階制の間には「大きな性格の差がある」と大津が書いてくれているのは我が意を得たり、です。
 その違いは、前者は軍事目的、後者は、支那の位階制的なものの継受、ということに由来する、というのが、私見であるわけです。(コラム#省略)
 だからこそ、前者は男性のみが対象であったのに後者は女性も対象になり、また、前者では官吏に文武官の区別がなくて当然文官職と武官職とで人事担当部局が分かれていたとは思えないのに対し、後者では文武官が截然と区別されて人事担当部局も分かれた、と。
 なお、前者に位階と職位を紐づけするところの官位相当制がなかったのは、軍事目的である以上、戦場等、有事において、上下関係を明確化することが、その唯一最大の目的だったのだから、当たり前です。(太田)

(続く)