太田述正コラム#11532(2020.9.13)
<大津透『律令国家と隋唐文明』を読む(その10)>(2020.12.6公開)

 「ここで・・・2011年に発見された西安で出土した百済人貴族の祢軍墓誌に触れておこう。・・・
 墓誌によれば、祢軍は、・・・660<年>に百済が唐に滅ぼされたあと唐に仕え、・・・678<年>に66歳で亡くなり、・・・長安の近郊・・・に葬られた。
 ・・・時には日本の余噍<(注26)>、扶桑<(注27)>に拠り以て誅を逋<のが>れ、風俗の遺甿、盤桃を負ひて以て阻み固む。・・・

 (注26)その地に残された人
https://baike.baidu.com/item/%E4%BD%99%E5%99%8D/2981286
 (注27)「海東のかなたには、亀の背に乗った「壺型の蓬莱山」が浮ぶ。海東の谷間には、太陽が昇る「巨大な扶桑樹」がそびえる<という、>・・・古代、東洋の人々<の>・・・神仙思想が育んできた幻想である。・・・のち、『梁書』が出て以降は、東海上に実在する島国と考えられるようになった。・・・
 <この『梁書』では、扶桑から梁にやってきた僧慧深(けいしん)の話として次のようなものを紹介している。>兵士や武装はなく、戦争をしかけない。・・・鉄はないが銅(青銅か)はあり、金銀はふんだんにある。・・・結婚するときは、婿が女の家へ行き、・・・女が喜ばなかったら<去るが>、喜べば成婚となる。・・・死者の霊を神像とし、朝夕拝む。・・・かつては仏教はなかったが、大明2年(458年)、罽賓国(ガンダーラ・カシミール近辺)から5人の僧が来て仏典と仏像をもたらし出家を勧めたので、風俗は変化した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%B6%E6%A1%91
 「『梁書』(りょうしょ)は、<支那の>南朝梁(502年から557年)の歴史を記した歴史書。56巻。629年(<唐の>貞観3年)に、陳の姚察の遺志を継いで、その息子の姚思廉が成立させた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%81%E6%9B%B8

⇒慧深の「証言」は、扶桑の位置が梁から遠過ぎる上、荒唐無稽な、或いは、間違っていると思われる記述も多く、まともそうな部分だけを紹介した次第ですが、その限りにおいては、間違いなくそれは倭のことですよね。
 で、日本が唐軍によって占領されたとすれば、日本という国、というか王朝、は、一旦滅びたわけですが、住民達の中には、日本の勢力外、ないしは、日本のうち唐軍の駐屯した地域の外、へと逃れた者達もいたはずであり、そのことを、墓碑銘のこのくだりは書いている、と、私は解しています。(太田)

 海左に格〇<(言偏に莫)>(かくぼ)・・・たるを以て、特に帝に簡<(えら)>ばるること在り、・・・

 本墓誌を公表した<中共の>王連龍<(注28)>氏は、ここにみえる「日本」を日本国号の早い用例だとした。

 (注28)「吉林大学古籍研究所副教授で・・・古代文献と石刻の研究者」
https://blog.goo.ne.jp/kosei-gooblog/e/83d4a0170e3ffd13634b4f6dcd46bd95

 ・・・『日本書紀』天智4年(665)9月の唐国が・・・大使節団を<日本に>派遣した記事に・・・祢軍<への言及があり、>『善隣国宝記』<(注29)>には、前年天智3年の<日本への>使者としても・・・祢軍・・・が見える。

 (注29)「京都相国寺の僧侶瑞渓周鳳によって著された漢文による外交資料集。日本最初の外交史の書として知られている。序文に・・・1466年・・・、後書に・・・1470年・・・の年号が記載されている。ただし、一部の文書の下限は・・・1486年・・・であり、・・・1473年・・・の瑞渓周鳳の没後に加筆が行われたと考えられている。・・・
 外交文書起草は朝廷の大内記の職務であったが、大内記の職務が形骸化してから久しく、また足利義満が朝廷から分離した立場から外交を行ったことから、義満以後の室町幕府においては漢文に通じた五山派の禅僧たちが外交文書の作成を担当し、瑞渓周鳳も・・・1464年・・・の明国皇帝への上表文作成を担当していた。彼はその経験を踏まえた上で、知り得た外交文書に関する旧規先例を五山派の後進に伝えるとともに、五山派が持つ外交文書作成の権限を将来にわたって保持していくために著したのが『善隣国宝記』であったと考えられている。・・・
 後に江戸幕府の外交文書作成権限は林家に移るものの、五山派禅僧は幕府の命によって対馬藩の以酊庵に朝鮮修文職として派遣されて朝鮮向けの外交文書作成にあたっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%84%E9%9A%A3%E5%9B%BD%E5%AE%9D%E8%A8%98

 <彼は、>「日本の余噍」<云々>はこの祢軍の倭国への出使を指すと考えたからである。」(65~67)

⇒大津は、続いて、東野治之と葛継勇、そして自身、の、王連龍への反論を載せていますが、いずれも説得力があるとは言えないので、省略します。
 なお、中村通敏(注30)(1935年~)が、冨谷至による王連龍への反論に対して、私の見解に近い批判的見解を記しています。↓

 (注30)九大工学部卒、ゼネコン退職後古代史を研究。
http://kaichosha-f.co.jp/persons/3225.html

 「『梁書』には「扶桑」は倭より東の地域で仏教が盛んな所と書いてあります。ただ距離が極端に遠いことから、作り話という通説になっているようです。しかし、この距離を魏晋朝の短里とすると、これは日本列島中央から東方の国ではないか、と思われます。・・・「日本余噍云々」は、素直に中大兄皇子が朝倉から→飛鳥→近江と移り、称制として逼塞したことと取ってよいと思われます。」
https://ameblo.jp/torashichi/entry-12481301768.html
 また、東野治之、葛継勇、や、冨谷至、が言及しているのかどうかは知りませんが、少なくとも、大津には、新羅本紀の記述(注31)(前出)に言及して欲しかったですね。(太田)

 (注31)「『三国史記』新羅本紀第六の「文武王十年(670)十二月、倭国更号日本。自言近日所出、以為名(倭国、更[あらた]めて日本と号す。自ら言う、日出ずる所に近し、以て名となす)」と<ある。>」
https://blog.goo.ne.jp/kosei-gooblog/e/83d4a0170e3ffd13634b4f6dcd46bd95

(続く)