太田述正コラム#11538(2020.9.16)
<大津透『律令国家と隋唐文明』を読む(その13)>(2020.12.9公開)

 「・・・律令<は、>・・・唐では皇帝が替わるたびに作りなおされるのが原則で、・・・玄宗皇帝は開元年間だけでも三回編纂している。・・・
 名例律18条に「非情の断、人主(じんしゅ)之を専らにす」と、非常の場合には皇帝が自由に裁断できるとある。
 皇帝は律令法に拘束されない超越した存在であり、律の精緻な刑罰・裁判体系を破ることができるのである。

⇒「名例律18条」の前に固有名詞的なものが付いていないので、この条文は、唐の律令全てに共通していたということだとして、これは、現代でいう、緊急事態規定、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%8A%E6%80%A5%E4%BA%8B%E6%85%8B
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%9E%E5%B8%B8%E4%BA%8B%E6%85%8B%E5%AE%A3%E8%A8%80
であり、皇帝を国家と読み替えれば、ごく当たり前の規定に他なりません。(太田)

 養老名例律にも同じ規定があり、官人が犯した犯罪を「勅断」によって変更できる規定もある(考課令64官人犯罪条)。・・・

⇒これは、天皇が現代でいう最高裁機能を果たす、という規定に過ぎず、緊急事態規定とは何の関係もありません。
 ということは、日本の律令・・養老律令と言い切ってもよい・・には、あえて緊急事態規定を盛り込まなかった(継受しなかった)ことを意味するのであって、これだけでも、律令は床の間に飾っておくだけの存在で、まともに実施する気などなかったことが窺えるというものです。
 (どうせ床の間に飾っておくだけなら、緊急事態規定を残しておいてもよかったのでは、なんてまぜっかえさないでくださいね。)(太田)

 日本では律令の編纂は養老年間で終わるので、代替わりに律令を編纂するということはなかったし、『続日本紀』の伝える次の事件は天皇と律令の関係を考えるヒントになる。

⇒唐では律令の改正が何度も行われたのに対し、日本では、事実上、改正は一度も行われなかったというのですから、現在における、諸外国の憲法群と日本の明治、現行両憲法の運用実態の違いと全く同じです。
 で、私見では、改正されない憲法は規範性がないということなので、日本の律令も規範性がなかったらしいということになり、これも、日本の律令は基本的に実施されなかったのではないか、との私の推測に沿ったプラスの材料である、と言ってよいでしょう。(太田)

 ・・・724<年>2月に聖武天皇が即位する。・・・
 その2日後天皇は「正一位藤原夫人を尊びて大夫人(だいぶにん)と称す」という生母の藤原宮子<(注36)>の称号を定める勅を出した。

 (注36)?~754年。「文武天皇の夫人。藤原不比等の長女。・・・異母妹で聖武天皇の皇后光明皇后とは、義理の親子関係にも当たる。・・・
 701年・・・、首(おびと)皇子(後の聖武天皇)を出産したものの心的障害に陥り、その後は長く皇子に会うことはなかった。文武や父不比等ら肉親の死を経て、723年に従二位に叙され、首皇子が即位した翌724年には正一位、大御祖(文書では皇太夫人)の称号を受けたが病は癒えず、737年にやっと平癒、息子天皇と36年ぶりに対面した。そして、孫阿倍内親王が即位(孝謙天皇)した749年には太皇太后の称号を受け、754年に崩御した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%AE%E5%AD%90

 しかし一ヵ月あまりした3月22日、
 左大臣正二位長屋王<(注37)>等言(もう)す。「伏して2月4日の勅を見るに、藤原夫人を天下皆大夫人と称せよといへり。臣等謹みて公式令(くしきりょう)を検ずるに、皇太夫人(こうたいぶにん)と云へり。勅の号に依らむと欲するときは、皇の字を失ふべし、令文を須(もち)ゐむと欲すれば、恐らくは違勅と作(な)らむ。定むるところを知らず。伏して進止を聴かむ」。
と太政官議政官<(公卿)>が奏上し、公式令の規定と違うとクレームをつけた。

 (注37)676/684年~729年。「父は天武天皇の長男の高市皇子、母は天智天皇の皇女の御名部皇女(元明天皇の同母姉)・・・
 720年・・・8月に藤原不比等が薨去すると、翌・・・721年・・・正月に長屋王は従二位・右大臣に叙任されて政界の主導者となる。なお、不比等の子である藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)はまだ若く、議政官は中納言としてようやく議政官に列したばかりの武智麻呂と参議の房前のみであったため、長屋王は知太政官事・舎人親王とともに皇親勢力で藤原氏を圧倒した。・・・
 721年・・・11月に元明上皇が死の床で、右大臣・長屋王と参議・藤原房前を召し入れて後事を託し、さらに房前を内臣に任じて元正天皇の補佐を命じる。こうして、外廷(太政官)を長屋王が主導し、内廷を藤原房前が補佐していく政治体制となる。・・・
 724年・・・2月に聖武天皇の即位と同時に長屋王は正二位・左大臣に進む。・・・
 729年・・・2月<に、「誣告」によって>・・・長屋王の変が発生・・・長屋王および<妻の>吉備内親王と所生の・・・皇位継承権を持つ<と思われる>・・・諸王らは・・・自殺した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B1%8B%E7%8E%8B

 それに対して聖武は「宜しく文には皇太夫人、語(こと)には大御祖(おおみおや)とし、先勅を追収し、後号を●<(分偏に頁)>すべし」と先勅を撤回したのである。・・・
 中国であれば、皇帝の勅は絶対で律令を超越していたから、このようなクレーム自体ありえなかった。
 しかし日本ではそうではなかった。
 天皇が律令に拘束される存在だったといえる。
 ここから早川庄八<(コラム#11225)>氏が指摘しているように、律令法の運用の主体が、太政官議政官に代表される貴族層、伝統的氏族層にあったことが読み取れるだろう。」(77~79)

⇒典礼的なもの、つまりは、政府部内ではそれなりに重要かもしれないけれど、被治者達にとってはどうでもよい規定、に関しては、少なくとも律令が実施されていたことが分かります。
 でも、この種の挿話として、この一件しか残されていないのであれば、そういった規定以外の諸規定は実施されなかったことを、これもまた、示唆しているのではないでしょうか。
 なお、早川説については、私は、当時までの日本の社会の構成原理が既にエージェンシー関係の重層構造的なものであったところ、政府部内においても、天皇の権威と権力が、エージェンシー関係の中で、各級貴族達によって分有されていた、と見ていることから、当たり前ですよ、と言いたいですね。(太田)

(続く)