太田述正コラム#11540(2020.9.17)
<大津透『律令国家と隋唐文明』を読む(その14)>(2020.12.10公開)

 「・・・井上光貞<(注38)>氏は、律令国家は律令制と氏族制の二元的国家であるという指摘をしている。

 (注38)1917~1983年。「父侯爵 井上三郎(桂太郎三男)、母千代子(井上馨長女)の長男として、・・・生まれる。」東大文(国史)卒、帝国学士院を経て東大文助手、教養学部講師、助教授、インド・中東・欧米訪問、東大博士(文学)、文学部助教授、ハーヴァード大臨時講師、東大文学部教授、名誉教授、国立歴史民俗博物館初代館長。
 「古代日本、特に浄土教を中心とした仏教思想史、律令制以前の国家と天皇の起源に関する問題、律令研究を通じての「固有法」から「律令法」への変遷をテーマに研究した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E5%85%89%E8%B2%9E

 吉田孝<(前出)>氏は、より広い視野からそれを文明と未開ととらえ、いまだ未開な社会が文明化していく過程だと律令制の成立を意義づけ・・・氏族制の未開な社会の上に律令制の円錐がそびえ立っているイメージを描いている。
 したがって律令制のある部分には、実現されないが理想であり青写真の部分があると論ずるのである。<(注39)>」(81)

 (注39)「8世紀を中心とする日本の律令国家は,「未開」な社会のうえに「文明」としての律令制が重なった,二重構造の国家としてとらえられる。この二重構造論は,石母田正・井上光貞の説をふまえて吉田孝が提起したもので,現在も有力学説としての地位を失っていない。表層的には,中国の律令制をモデルとした開明的諸制度を打ちたてながら,基層部分には,ヤマト政権以来のプリミティヴな要素が根づよく残っている,というのが日本の律令国家の実態であった。そして,後者の要素を払拭し,前者の要素を全面化する方向で,表層と基層の乖離を埋めていくのが,9世紀にかけての律令国家の展開であった,ということになるだろう。
 こうした「未開」と「文明」の二重構造は,律令国家の君主である天皇にも見いだすことができる。天皇の場合,「未開」の要素はヤマト政権を代表していた大王(オホキミ)の顔,「文明」の要素は,小帝国日本を支配しようとする皇帝の顔として存在する。表層では,中国の皇帝にならって,天下に君臨する超越的権力者としての顔をみせながら,基層では,ヤマトを中心とする畿内地域に深く根ざした,伝統的王者としての顔が生き続けている,ということである。」(三谷芳幸)
http://www.daiichi-g.co.jp/chireki/info/siryo/23/ch19_23.pdf
 三谷芳幸(1967年~)は、東大博士(文学)、現在筑波大人文社会系准教授。
http://www.yoshikawa-k.co.jp/author/a52767.html
 吉田孝の「未開」、「文明」概念については下掲参照。↓
 「<日本における>国家の成立を遅くみる見方を決定したのは、吉田孝が主唱した双系制社会論です(『律令国家と古代の社会』岩波書店、一九八三)1。双系制というのは、父系・母系の双方の関係が社会関係の中で対等な位置をもっているという意味で、むしろ東南アジアの人類学的な調査から導き出された概念です。非常に単純化していえば、いわゆる階級支配が男と女の対立を社会的に組織することを重要な根拠としていたとすると、家父長制が成立していない以上、階級社会ではないという訳です。この双系制論は、従来、母系制という観点から強調されていた論点を、より長期的なスパンで議論することを可能にしました。もちろん、それは人間の男女の身体的性差にもとづく性的分業が存在していたことを否定するものではありません。むしろ、そのような性差の社会的な意味は逆に強力であったはずですが、社会的権威という点では、男性権威と女性権威が相対的に平等であり、あるいは独自であり、それが社会的にも政治的にも一般化している社会構成というものを措定することが可能であるということができます。成層化し、複雑化した首長制社会において、この双系制的な社会編成が強力に存在し、首長権力の構成原理となっているということは十分にありえると思います。そして、この吉田の仕事をうけて、いわゆるフェミニズムの立場に立った歴史学的な分析がきわめて重要な事実を明らかにしつつあります。たとえば、義江明子は、卑弥呼を巫子王とし、男弟が政治的実権を握っていたという従来のイメージを強く批判し、この時期の首長は男女によって構成されており、政治・経済さらに軍事においても対等な関係をもっていたことを示しました(義江『作られた卑弥呼』ちくま新書、二〇〇五)。・・・
 <そういうわけで、かつては、>三・四世紀には日本国家は成立していたといわれていました<が、>・・・七世紀ととらえる見方が多くなりました。」
http://hotatelog.cocolog-nifty.com/blog/huhitokousinn.html

⇒確かに、一般に、文明の成立と政府(国家)の成立とを同値視するのが通説ではあります
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E6%98%8E
が、それでは、古代四大文明の一つであるインダス文明が、「他の古代文明とは異なり王宮や神殿のような建物<が>存在しない<し、>戦の痕跡や王のような強い権力者のいた痕跡<も>見つかっていない。<また、>周塞の目的としては、何らかの防衛や洪水対策の他に、壁と門を設けて人・物資の出入りを管理する事<が一般的であるところ、>モヘンジョダロでは市街地の周塞が発見されていない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%80%E3%82%B9%E6%96%87%E6%98%8E
以上、文明ではないことになりかねません。
 従って、卑弥呼の時代はもとより、飛鳥時代に至っても、日本は非文明(=氏族制/未開)であった、とするところの、井上・吉田説、とりわけ吉田説、は、私に言わせればナンセンス以外の何物でもありません。
 彼らが「旬」であった頃には、まだインダス文明のことがよく分かっていなかったということはあるでしょうが、吉田説に対してすら全く無批判な大津に関しては申し逃れはできますまい。(太田)

(続く)