太田述正コラム#11554(2020.9.24)
<大津透『律令国家と隋唐文明』を読む(その21)>(2020.12.17公開)

 「八省・・・などの行政官司については、省ごとに前身や伝統が異なっている。
 石母田正氏は、かつての大王の私的な家産組織を継承し、多くの被管官庁(職一、寮四、司一三)をもっている宮内省や中務省のような古い型の省と主計寮と主税寮しかもたない民部省や式部省のような新しい型の省があることを指摘している。・・・
 吉川真司<(注63)>氏によれば、唐では文書行政において三判制といって各部署の判官が分判し、通判官が通判・・・、長官が総判して、それぞれ文書をはり継いだ案巻という書類に自筆で判辞を書き入れる。

 (注63)1960年~。京大文卒、同大院博士課程満期退学、同大文助手、助教授、同大博士(文学)、准教授、教授。「主な研究業績としては石母田正や早川庄八らの古代官僚制研究を批判的に継承し、10世紀後半に律令官人制が再編されることを明らかにし、10世紀後半の摂関期を「初期権門政治」と位置づけ中世の出発点と評価した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%B7%9D%E7%9C%9F%E5%8F%B8

⇒「注63」だけの範囲ですが、摂関期は、私見では封建制移行のための布石がトップダウンでどんどん打たれるようになる時期である(次回東京オフ会「講演」原稿参照)ところ、「中世の出発点と評価した」古川を高く評価したいですね。(太田)

 ところが日本では文書行政といいながらも案巻処理は行なわれない。
 主典が文書を読み上げて、それを長官以下が口頭で決裁をする(宣という)。
 決裁の結果はその場に居合わせた官人が共知するという連帯責任制であったことを明らかにした。
 それぞれの責任や分掌は実質的に存在せず、官司内に分曹もないことから、通判官でなく次官として長官と同じ職掌となっているとした<(注64)>。・・・

 (注64)「長官と次官の職掌が同じとされた背景には、位階制度が関係している。実際の政務を観察すると、長官・次官ともに五位以上であるとき、軽微な案件や通常の案件はほとんど次官が決裁して長官の関与は見られず、重要な案件のときに長官が決裁していた。さらにより重要な案件の場合は、長官が関与しないまま、次官から太政官へ政務案件が上程されていた。次官が六位以下であれば、基本的に長官がすべての案件を決裁した。原則として、最終決裁者が五位以上かどうかが決裁に当たっての指標となっていたのである。長官が六位相当である司の場合、軽微な案件であれば長官の正に監督権限があったものの、一定以上の重みを持つ案件になると五位以上の者に監督権限を代行してもらう場合もあった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E7%AD%89%E5%AE%98

⇒大津の文章は分かりにくいですが、どうやら、私が役所で経験した「文書行政」って、日本での大昔からの伝統を引きずっていたようですね。
 ハンコがべたべた押された「決裁文書」は結果としての体裁に過ぎず、目上の人に代決されうる人は別として、関係者全員のコンセンサスが成立するのが前提、という・・。
 コンセンサス未成立のまま「決裁文書」を回したら、意見を聞かれていない、或いは反対の、人はハンコを押さないか、押しても、実施に協力しないので、事前にコンセンサスを成立させる必要があるわけです。(太田)

 <なお、>長官が複数いるというのは日本古代国家の古くからの伝統だったようである。

⇒このことをネット上で少し調べたが、裏付けを見出すことができませんでした。(太田)

 日本では・・・実際には口頭伝達の世界が奈良時代においてもなお重要な位置を占めていたことを指摘したのが早川庄八<(前出)>氏である。・・・
 「宣」<がそうだが、>・・・公式令は役所どうしあるいは地方から中央への文書書式を規定するが、天皇の詔書だけは、「スメラミコト<(注65)>」の「ミコトノリ<(注66)>」として口頭で「のる」必要があった・・・。

 (注65)「〈天皇〉は〈オオキミ〉とも〈スメラミコト〉とも呼ばれた。しかしこの二つの日本語は決して同義ではな<い。>・・・
 まずオオキミは〈大いなる君〉の意で,キミはまた〈カミ=上〉と通ずる古来の日常的尊称であった。・・・したがってオオキミは天皇だけをさす語ではなく,王族身分の称・・・など)に用いられ,さらに一般にとくに尊敬をこめた代名詞として使われた形跡がある。
 これに対しスメラミコトは天皇のみをさす尊称で,それは旧来のオオキミに代わって,王権の聖性と尊厳を内外にあらわすべく,6世紀末ないし7世紀初めのころ,とくに定められたものと思われる。スメラミコトの用例が対外的文書や詔勅といった公式的・儀礼的機会に限ってみられ,歌の中にいっさい出てこないのはこの語の特性にもとづく。《万葉集》中の天皇賛歌においても,天皇はやはりオオキミと呼ばれており,これは当時の歌が生活の言語を基本とするための,神聖な権威をあらわすスメラミコトとなじまなかったのである。そこからスメラミコトが日常語とは次元の異なる宮廷専用の,天皇を政治的・宗教的に聖別する用語として機能したことを知りうる。」
https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=127
 (注66)「「大命(おほミコト)を宣聞す(ノリきかす)」という意味であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A9%94%E5%8B%85

 官人の任官にあたっても、日本では唐と異なり、文書による辞令(唐では告身(こくしん))は作られず、やはり宣命により口頭で発表、伝達された。
 音声言語のもつ呪術的な機能、儀礼的意味があったと考えられる。
 一方で叙位においては、位記が作られて、そこには「天皇御璽」印が捺された。」(100~105)

⇒日本に、このような、口伝(口頭伝達)の確固たる伝統があったからこそ、私の言う、聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想、が、ごく少数の人々の間の口伝で(恐らく正確に)代々伝えられていったのであるし、かつまた、その存在すら秘匿されたまま現在に至ったのである、と、私は考えています。(太田)

(続く)