太田述正コラム#11556(2020.9.25)
<大津透『律令国家と隋唐文明』を読む(その22)>(2020.12.18公開)

 「・・・唐の開元令では・・・鹵簿<(注67)>令(ろぼりょう)・・・という篇目・・・がある<が、>・・・日本令には・・・ない。・・・

 (注67)「鹵は楯(たて)の意,簿は行列の順序を記した帳面の意で,古代<支那>の天子の行列をさす。」
https://kotobank.jp/word/%E9%B9%B5%E7%B0%BF-663910

 鹵簿とは皇帝の行列のこと<だが、>・・・天皇についてはほとんど規定がない<のだ>。・・・
 <また、>皇帝以下の服装を定める衣服令という篇目<があるのだが、>・・・日本の衣服令では、冒頭が皇太子の礼服・・・からはじまり、臣下の礼服、朝服などを規定するが、天皇の衣服についての規定はまったくない。・・・
 律令制が天皇について規定しないのは、天皇の本質に関わる固有の習俗があり、中国律令制の文明に較べるときにはなお未開というべきもので、律令制に規定できなかったからと考えることができる。
 8世紀はじめの段階では、固有の習俗に包まれた天皇制を、それは国家の本質に関わるがゆえに、中国的なものに変えることができなかったのだろう。
 鹵簿令を削除したのも、おそらく天皇の行列は一種の神祭りの行列であり、中国の皇帝のそれとはまったく違っていたから明文で規定できなかったのだろう。

⇒「未開」などという言葉を使うとは、大津にも困ったものです。
 なんだかおどろおどろしい書き方になっていますが、大津は、既に、古代日本では、最も重要な「文書」である天皇の詔書は口伝で発出された、と書いており、その伝で行けば、天皇に関わるものの多くが、律令ではなく、口伝で継承されたとして、そのことに何で不思議があるのか、と思ってしまいます。(太田)

 天皇の即位については、神祇令13践祚(せんそ)条に以下のように規定する。
 凡そ践祚の日には、中臣、天神(あまつかみ)の寿詞(よごと)を奏し、忌部(いんべ)、神璽(じんじ)の鏡剣を上(たてまつ)れ。・・・
 『日本書紀』<から、>・・・持統天皇の即位式は本条の規定によって行なわれたのは明らかで、浄御原令で本条は成立したらしい。

⇒そうではなく、単に、それまで口伝で行われていたことを本件に関しては律令に規定した、というだけのことでしょう。(太田)

 ここから律令制下の天皇は何に支えられたかがわかる。
 <以下、『日本書紀』からだが、>中臣氏による天神寿詞は、おそらく天(あま)つ日嗣(ひつぎ)(皇統系譜)の神話を事挙げし、「天日嗣高御座<(注68)>(たかみくら)」と呼ばれる天皇の座の意味を確認する役割がある。

 (注68)「平城京では平城宮の大極殿に、平安京では平安宮(大内裏)の大極殿、豊楽殿、のちに内裏の紫宸殿に安置され、即位・朝賀・蕃客引見(外国使節に謁見)など大礼の際に天皇が着座した。内裏の荒廃した鎌倉時代中期よりのちは京都御所紫宸殿へと移された。・・・
 現在の高御座は、大正天皇即位の際に、古式に則って制作(再現)された物であるが、玉座は茵(しとね)から椅子に代わり、新たに皇后が着座する御帳台(みちょうだい)が併置された。こんにち京都御所の紫宸殿に常設されて<いる。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%BE%A1%E5%BA%A7
 「茵<は、>・・・通常、畳の上に敷かれた真綿入りの座具であり、座布団の一種といえる。四方の縁(へり)を錦(にしき)などで囲った正方形の敷物で、その成立は平安時代のことであるという。縁は位階により五位以上は黄絹、六位以下は紺布などとなっていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%B5
 「高御座には敷物として「上敷両面二条、下敷布帳一条」と記され二種類の敷物<(茵)>を重ねる平敷であ<る。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%BE%A1%E5%BA%A7 前掲

⇒本筋を離れますが、「西欧同様に<支那>は「イス文化」の歴史を持つ。<支那>では北方遊牧民の北魏の風俗から椅子の普及が始まり、宋の時代に一般階層まで行き渡った。一方、日本や朝鮮では椅子をあまり用いない生活様式をしてきた歴史がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%85%E5%AD%90
というのに、20世紀(大正天皇即位は1912年
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E5%A4%A9%E7%9A%87 )にもなって、高御座を茵式から椅子式に変えたとは、残念です。(太田)

 翌年の大嘗祭でも中臣大嶋がふたたび天神寿詞を読んでおり、新天皇が高天原のアマテラス、その孫ニニギ以来の血統を継いで即位することを示すのである。
 一方の忌部氏による鏡剣の奏上<(注69)>は、大化前代には大臣に率いられ「群臣」「大夫」と呼ばれる畿内豪族によって献上され、それにより大王が即位した伝統を継承している。

 (注69)「ここで玉に関する言及がないことについては以下のような諸説がある。
・「三種の神器」として問題ないとする諸説
 ・玉も神器の1つだったが、身に着ける宝であり、献上される品ではなかった
 ・漢文特有の表現上の問題であって実際には鏡剣玉の3つをさしている
  ・「鏡剣玉」を略して2字で代表させている
  ・「神璽」が玉のことをさしている(『日本書紀』の原文では「神璽剣鏡」であり「神璽・剣・鏡」と3つに読むことが可能である)
  ・「神璽」が神器全体の意と、鏡剣に対して玉をさす意を兼ねている
・鏡剣と玉との間に落差や経緯の違いを想定する諸説
 ・玉は神器としての重要性が劣り、宝としては鏡剣より軽いと考えられていた
 ・本来もともと3種であり天智朝に定められた即位儀礼までは3種であったがなぜか『飛鳥浄御原令』で鏡剣の2種に改められその後またすぐ3種に戻った
・三種の神器と称するのは後世の創作された物語の上でのことにすぎず、神器の真実は鏡剣の「二種の神器」だったとする説」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%B0%BA%E7%93%8A%E5%8B%BE%E7%8E%89

⇒再び、本筋を離れますが、勾玉は人間主義の象徴(コラム#10532)であって、それが、即位する天皇に備わっていることは必要条件なので、それの象徴については、畿内豪族達が献上する(協力する)余地がなかったからだ、というのが私の仮説です。(太田)

 天皇を支えた基盤は畿内豪族、五位以上官人の集団にあるのだろう。
 彼らが天皇に仕え奉り、即位を承認し、天皇は彼らにカバネ(姓)を賜い地位(ツカサ)を認めるという、氏姓制度の関係が残っていたのであろう。」(105~108)

(続く)