太田述正コラム#11572(2020.10.3)
<大津透『律令国家と隋唐文明』を読む(その27)>(2020.12.26公開)

 「・・・藤原広嗣<は、740年、>・・・聖武の寵臣の成り上がった玄昉と真備を「朝廷乱す人」として、その排除を要求して乱を起こした。・・・
 <その、>広嗣は斬られて叛乱は終わった。
 しかし玄昉は、結局<、745>年に筑紫の観世音寺に左遷され、与えられた封土も没収され、翌年に死去する。・・・
 吉備真備<の方>は、・・・<引き続き、>順調に出世を続け<たが、>・・・孝謙即位後の・・・750・・・年正月に、突如筑前守、ついで肥前守へと左遷された。・・・
 この年9月に、遣唐使の派遣が決まり、大使に従四位下参議藤原清河、副使に従五位下大伴古麻呂(こまろ)が任命された。
 ところが翌3年11月になって突如として真備が遣唐副使に追加任命された。
 真備は左遷されていたとはいえ従四位上で、清河より位階が高い。

⇒位階が、冠位制時代の、武官の階級としての性格を、当時、まだ持ち続けていたということではないでしょうか。
 だから、文官としては、位階が逆転した上下関係も許されたのでは?(太田)

 そもそも藤原氏で参議が大使となるのははじめてのことで、古麻呂も真備も入唐経験者という異例なものであった。
 それだけ任務の重大さが推測されるが、・・・鑑真招聘の実現のほかに、真備には阿倍仲麻呂の帰国、さらに唐の文人を招請する任務があったと東野治之氏が推測している。・・・

⇒天武朝の唐風狂いが頂点に達したということ以上でも以下でもありますまい。(太田)

 玄宗は・・・阿倍仲麻呂・・・に勅命して、日本使を案内させて府庫の一切を見せることを許した。・・・
 さらに大使・副使の肖像を描かせ、清河に特進(正二品)などの高位高官を与え、さらに玄宗自身「日本使を送る」という御製の五言律詩を送った。・・・
 阿倍仲麻呂・・・は、真備と同じ養老の遣唐使の留学生だが、きわめて優秀で太学(たいがく)に入学が許され、科挙に合格して唐朝の官僚になり・・・清河らが長安にいた・・・753・・・年には53歳、秘書監(秘書省長官、邦国の経籍と書を取り扱う)兼衛尉卿(衛尉寺長官、器械文物を扱い、武庫を統轄)、従三品の高級官僚であった。・・・

⇒異国人に、秘文書も最新の兵器も見放題、という待遇をしたのは、非常識も甚だしいでしょう。
 それ以前に、そういった諸物を管理する責任者に異国人を任命した点で既にそう言えますが・・。
 玄宗の前に一度武則天によって滅びた唐
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%89%87%E5%A4%A9
でしたが、この玄宗の時に再び、(今度は事実上)滅びた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%84%E5%AE%97_(%E5%94%90)
のもむべなるかな、です。(太田)

 真備は帰国してすぐに大宰大弐に任命された。
 新羅との関係悪化のなかで、進められたのが怡土城<(注79)>(福岡県糸島市)の造営で、・・・756<年>6月に真備の専当ではじめられた(・・・768<年>に完成)。

 (注79)いとじょう。「築城目的は詳らかでないが、今日では唐の安禄山の乱に対する備えとする説、対新羅政策の一環とする説の2説が特に知られる・・・。・・・城の様式は大陸系の<支那>式山城とされる。なお、吉備真備は当時の朝廷中枢の藤原仲麻呂の政敵であり、吉備真備の怡土城築城は、吉備真備を大宰府に釘付けにする仲麻呂政権の政略でもあった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%A1%E5%9C%9F%E5%9F%8E

 これは真備が中国で学んだ軍事知識を用いて立案したもので、7世紀末の朝鮮式山城とは異なる構造を持つ。新羅との戦いに備えたのである。

⇒大津が「注79」に出てくる「安禄山の乱に対する備え」説に言及もしなかったのはいかがなものかと思います。
 この説は詳らかにしませんが、唐が滅亡し、また新たな、騎馬遊牧民系の新王朝が樹立され、その新王朝によって、朝鮮半島、ひいては日本に危害が及ぶ事態に備えたもの、と、私自身は見ています。(太田)

 さらに・・・764<年>正月に造東大寺司長官として平城京に呼び戻され、直後に恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱が起きると、「急に召されて内に入りて、軍務を参謀す」・・・と軍事の知識を用いて、乱の鎮圧に貢献した。」(144~148)

⇒築城なら、唐の築城に係る文献さえあれば何とかなったでしょうが、「軍務<の>参謀」は、机上の勉強だけでは本来どうにも務まらないはずであるところ、それでもボロを出さなくて済んだようなのは、藤原仲麻呂側も軍事には疎かった(注80)ためでしょうね。(太田)

 (注80)740年の「前騎兵将軍(聖武天皇行幸)」という儀礼的武官経験を除いて、藤原仲麻呂には武官職経験がゼロだ。
 また、彼が武技を身に付けた形跡も全くない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BB%B2%E9%BA%BB%E5%91%82

(続く)