太田述正コラム#11574(2020.10.4)
<大津透『律令国家と隋唐文明』を読む(その28)>(2020.12.27公開)

 「・・・唐招提寺の伝薬師如来立像、伝衆宝王菩薩(しゅうほうおうぼさつ)立像の二体<(注80)>の奈良時代の木彫像・・・<は、>唐では白玉(大理石)で仏像を造っていたが、鑑真に伴った工人が石の代わりに木(カヤの一木)で造ったのである。・・・

 (注80)写真。
https://www.toshodaiji.jp/about_shinhouzoh.html

⇒どうして、石から木に変えたのかを知りたいところです。
 というのも、日本にも石仏はいくらでもある
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E4%BB%8F
からです。
 更に言えば、どうして金銅仏(注81)にしなかったのかも・・。(太田)

 (注81)こんどうぶつ。「わが国では、606年(推古天皇14)に本邦初の本格的寺院飛鳥寺が創建され、止利仏師の手になる丈六の金銅仏が安置されたのに始まる。以来7~8世紀にかけて質・量ともに全盛期を迎え、ついには高さ16メートルにも及ぶ東大寺の盧遮那仏(奈良の大仏)が鋳造されるに至った。しかし9世紀に入ると木彫の波に押されてしだいに衰退し、ふたたび日の目をみるのは13世紀に入ってからである。」
https://kotobank.jp/word/%E9%87%91%E9%8A%85%E4%BB%8F-67466

 当時の日本の仏教界は、多くの僧尼が正式な受戒を経て<いなかったところ、>・・・大宝の遣唐使で渡唐して・・・718<年>に帰国した道慈<(注82)(コラム#11530)>(どうじ)は、・・・偽りのやり方で仏法を修めてもどうにもならないと嘆いていた・・・。

 (注82)どうじ(?~744年)。「奈良時代の三論宗の僧。俗姓は額田氏。・・・702年・・・第八次遣唐使船で唐へ渡り、西明寺に住して三論に通じて・・・718年・・・15年に渡った留学生活に幕を閉じ、第九次遣唐使の帰りの船で帰国」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E6%85%88

 戒師招聘の本当の立案者は道慈本人だったのではないかと東野氏は推測している。・・・
 聖武以下がまず<鑑真から>菩薩戒を受けたことについては、上川通夫氏が隋の文帝<も>・・・煬帝<も>・・・菩薩戒を授けられ・・・たことを指摘し<ているし、>・・・河上麻由子氏は唐代の則天武后が菩薩戒を受けたことに注目し、孝謙女帝の権威を強化する政治史的意味を強調している。
 戒師の招聘は、孝謙のためというよりも、聖武の宿願であり、律令国家仏教にとっても不可欠なものだったから、あまり孝謙女帝個人の正統化を強調するのはいかがかと思うが、聖武太上天皇の受戒が、隋唐の皇帝を模範とした一種の唐風化であったことは間違いないだろう。・・・

⇒武周の武則天は、「唐風」に逆らって、道教ではなく仏教を最重視し、菩薩戒を受けたのですから、聖武天皇の受戒、より一般化して言えば仏教政策、に関しては、「一種の唐風化」ではなく、「一種の随・武周化」とでも称すべきものでしょう。(太田)

 養老律令の施行も、祖先顕彰つまり・・・藤原仲麻呂・・・自身の権威づけのための演出と考えられることが多い。
 <しかし、>その2年後に、・・・律令格式・・・を読む人を官人に挙し、史生(ししょう)以上の任用条件とすることを勅している・・・。・・・
 この勅は・・・史生、四等官への任官に関する実効的な、しかも基本となる規定であったことが、傅田伊史<(注83)>氏によって解明された。・・・

 (注83)でんだいふみ(1960年~)。早大院博士後期課程単位取得退学、長野市立長野高校教諭。
https://d.hatena.ne.jp/keyword/%E5%82%B3%E7%94%B0%E4%BC%8A%E5%8F%B2

 <すなわち、>式部省が・・・律令格式・・・の大意を問う試験を行なっていた。
 平安時代前期には雑任を史生へ任用する場合にこうした試験が課されたのであり、律令を官人に浸透させたと評価できるだろう。

⇒試験科目とされている事項が、実際に実施されているとは限りませんし、「養老律令の施行も、祖先顕彰つまり・・・藤原仲麻呂・・・自身の権威づけのための演出と考えられることが多い」点については、どうしてそう考える歴史学者が多いのか、知りたいところではあるけれど、少なくとも、養老律令が真面目に施行されたかどうか、日本の歴史学者の多くが疑問を抱いているということですよね。(太田)

 またここに「律令」でなく「律令格式」とあることも注目できる。
 この勅と同じ日に、中納言兼文部卿(式部卿のこと)石川年足(としたり)が、個々の禁令は編纂されているが、「別式」は制作されていないとして、「別式を作りて律令と並び行はむ」と奏上している。
 養老令は「別格」「別式」の編纂もめざし、格式を具備した本来の律令法の体系をめざしたとして、養老律令の施行は積極的な意味をもったというのが榎本淳一<(注84)>氏の説である。」(151~152、155~156、158~159、166~168)

 (注84)1958年~。東大文卒、同大院博士課程単位取得退学、日本学術振興会、工学院大学講師、助教授、教授、東大博士(文学)、大正大教授。
https://www.amazon.co.jp/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%83%BB%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E5%AD%A6%E8%A1%93%E3%81%A8%E6%94%AF%E9%85%8D-%E6%A6%8E%E6%9C%AC-%E6%B7%B3%E4%B8%80/dp/4886216293
https://www.hmv.co.jp/artist_%E6%A6%8E%E6%9C%AC%E6%B7%B3%E4%B8%80_200000000202360/

⇒少なくともこの時点では格式(注85)は制定されていなかったわけです。(太田)

 (注85)「律令制度は本来、律・令・格・式によって運用される。根本法典である律(刑法に相当)と令(行政法・民法に相当)は改正せず、必要があれば格を出して改正・追加し、細かな施行細則は式によって定めた。
 格は、個々の単行法令を「某日の格」などと称することもあったが、律令施行後の詔書・勅旨・太政官符など全般を称して格ともいった。式は、養老令の条文にも「式に依りて」「別式に依れ」などの文言があり、この場合は確かに令条の付則とみなすことができるものの、実際には律令条文の改廃・増補が格、施行細則が式というふうには明確に区別できないこともあった。たとえば、格とされる太政官符が、条文として整えられ、定められたうえで式とされる場合もあった。・・・
 日本の場合、律令の編纂から法典としての格式の編纂がなされるまでのあいだ、長い時間が経過していたのである。そして、実際に成立した格式についても、<支那>の格式では新しい格式が制定されると従前の格式は廃止されることとされていたが、日本では古い格式が廃止されずに併用して用いられていた。式に関しては『延喜式』制定時に既存の『弘仁式』『貞観式』を廃止することと規定されたが、『貞観格』についてはそうした措置が取られなかったために、結局三代の格の全てを調べなければ必要な法律情報が入手できない事態も生じた。・・・
 このため、式が格の施行細則を規定するということもみられるようになり、平安時代中期以後は律令にもとづいた律令政治という建前を採りながらも、実態としては格式にもとづく政治であったといわれている。したがって、格式は律令の補助法令という側面と同時に、9世紀以降の新しい社会状況に対応していくためにさかんに制定されたという側面をもっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%BC%E5%BC%8F

(続く)