太田述正コラム#11584(2020.10.9)
<大津透『律令国家と隋唐文明』を読む(その33)>(221.1.1公開)

 「・・・光仁天皇が即位し、山部立太子の後、・・・777<年>に遣唐使が派遣される。・・・
 この時請益生として伊予部家守<(注99)>という学者が参加していた。・・・

 (注99)いよべのいえもり(?~800年)。最終位階は外従五位下。・・・伊賀守<にも任ぜられている。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E4%B8%8E%E9%83%A8%E5%AE%B6%E5%AE%88
 「内位と外位の最大の違いは、内位は主に古来からの有力豪族に由来する中央貴族に与えられ、三位以上の公卿に昇り顕官に就く事が出来るのは内位を与えられた彼らだけであった。一方、外位に叙せられた者は国衙において内位を与えられて地方に派遣された中央貴族出身の国司の元で使役され、外位に四位以上が無い事でも明らかなように決して内位を与えられた中央貴族に取って代わることは出来ないように位置づけられていたのである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%96%E4%BD%8D

 『切韻』『説文』など漢字の辞書、とくに『切韻』で唐代の漢字音を学んだこと、および五経の一つ『春秋』について、従来註釈は左氏伝だけだったのに公羊伝<(くようでん)(注100)>・穀梁伝<(こくりょうでん)(注101)>を学んで帰ってきたことに大きな意義があるとされている・・・。

 (注100)「孔子の高弟子夏の門人公羊高が著わし,その玄孫寿が書物にしたと伝えられ,孔子は素王 (位のない王) として,統一王者の法を『春秋』に寓しているという立場から,いわゆる微言大義を明らかにするように努めている。前漢には,董仲舒,その他の学者によってこの伝が行われた。後漢には,何休が『春秋公羊伝解詁』を著わし,三科九旨という義例を唱え,『春秋』は漢のために王法を定めていると主張した。その後『公羊伝』は『左氏伝』にその地位を奪われたが,清代末期に今文学 (きんぶんがく) の<民国>革命思想の支柱となった。」
https://kotobank.jp/word/%E6%98%A5%E7%A7%8B%E5%85%AC%E7%BE%8A%E4%BC%9D-78613
 「今文学<は、>・・・おもに前漢時代に行われた経学で,戦国時代の古文 (篆文や籀文) の経書に対し,漢代通行の文字 (隷書) の経書によったので今文学という。あとで現れる古文経とはテキストも違い,特にその説を異にする。経書は孔子が漢のために考えておいたものという見地をとって,現実政治への適用を企図しており,『春秋公羊伝』『伏生尚書』がその主力。古文学 (『春秋左氏伝』,孔安国伝『尚書』が主力) は,今文学の学風を嫌って,事実の究明,訓詁 (くんこ) を主とし,前漢末から後漢にかけて,今文と古文の争いがあったが,六朝後,古文学が圧倒した。」
https://kotobank.jp/word/%E4%BB%8A%E6%96%87%E5%AD%A6-54479#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8
 (注101)「成立年未詳。孔子の高弟子夏の門人穀梁赤 (生没年未詳) の著と伝えられるが,実際は,『公羊伝』の煩瑣主義を修正して,『春秋』の倫理的意義や王朝の法制的意義を明らかにしようとしたものと思われる。前漢に一時行われたことがあるが,その後は『公羊伝』『左氏伝』の補助的位置にあるものとなった。」
https://kotobank.jp/word/%E6%98%A5%E7%A7%8B%E7%A9%80%E6%A2%81%E4%BC%9D-78614

 ・・・798<年>三月には公羊伝・穀梁伝を正式に大学寮のテキストとする勅許が<桓武天皇によって>出るにいたる。・・・
 <既に、>家守は左氏伝・公羊伝・穀梁伝の講義を・・・784<年>に大学寮ではじめ<てい>た・・・。
 この『春秋』、とくに公羊伝をふまえた法令が延暦年間の『続日本紀』にみられるのである。・・・
 <そして、><790>年12月詔でも・・・『春秋』・・・<から>引用して、外祖父母に正一位を追贈して、<桓武天皇の>外祖父<の>・・・土師宿禰を大枝(おおえ)朝臣に改めている。
 さらに<791>年三月には、・・・国忌(天皇の命に地で廃務)が多いとして、<それらを>中国の天子七廟<(注102)>にならって整理する<こととされた>。

 (注102)「儒教によると、「天子七廟」といって、皇帝は七代(以上)の祖先を祭ることができた。皇帝の宗廟は天命を受けた祖先を中心に祭られ、天命を受けた祖先は太祖などと呼ばれ、一般に王朝の初代皇帝があてられた。太祖を祭る宗廟を特に「太廟」という。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E5%B8%9D%E7%A5%AD%E7%A5%80

 <その結果、>残ったのは、桓武の父母・・・皇后・・・祖父母・・・および天智と聖武の忌日と推測される。・・・
 桓武天皇は、新たな皇統を正統化する支えとして、『春秋』、特に公羊伝を利用したのである。
 桓武朝の前夜に家守が『春秋』二伝を学んで帰ったのはけっして偶然ではなく、光仁朝に天皇周辺で新たな理論が模索され、遣唐使に学問の手薄だった部門、中国音の習得と『春秋』学の深化が大きな使命として課されていたのではないかと東野氏は考えている。」(182~185)
 
⇒777年は、775年の井上内親王・他戸親王母子「死去」後の「祟り」で、光仁天皇以下が大騒ぎしていた真っ最中であって、派遣構想を練った上で人選をする余裕などなく、にもかかわらず、実質、759年以来途絶えていた遣唐使を再開することにしたのは、「藤原清河を迎える目的もあった使節だが、この年の5月頃に清河は既に死去していた。なお同年1月には阿倍仲麻呂も死去。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A3%E5%94%90%E4%BD%BF
ということからして、この二人とその家族・・「藤原清河と唐人の間に生まれた娘の藤原喜娘」が帰船で「帰国」している(上掲)・・を迎えに行くのが主目的で、そのついでに書籍等も一応買い求めたものに過ぎない、と私は思っています。
 また、ご承知のように、桓武天皇は、アンチ唐風であったと私は見ていることから、『春秋』だのその『公羊伝』だの等が当時の諸政府文書に登場するのは、天武朝時代から持ち越されていた種々の「悪弊」改革の際に、口実として援用された、ということでしかなかったのではないでしょうか。(太田)

(続く)