太田述正コラム#11592(2020.10.13)
<坂井孝一『承久の乱』を読む(その3)>(2021.1.5公開)

 「さらに、院政期の特徴として忘れてはならないのが武士の台頭と寺社の強訴である。
 武士では、河内源氏(清和源氏の一系統)の源義家が前九年の役・後三年の役を戦って武名を上げた。
 義家は朝廷から私戦と認定された後三年の役の後、私財を投じて従軍した東国武士たちに報いたため、その名声はいよいよ高まった。
 白河も院の昇殿を許す破格の待遇をしたが、嫡子の義親が濫行(らんぎょう)事件を起こし、立場を急速に悪化させた。

⇒桓武平氏と違って、清和源氏の方は、武家系において、一人の嫡子が代々親から子へと受け継がれていったという認識を持っていますが、どうしてそのような違いが生じたかについて説明を試みた典拠をまだ見つけていません。
 なお、坂井には、白河が義家に「破格の待遇をした」理由についての考えを明らかにして欲しかったところです。
 この「破格の待遇」自体が、義家の「立場を・・・悪化させた」(コラム#省略)ことにも触れて欲しかったですね。(太田)

 一方、義親の追討使となって抜群の武勇を示したのが、伊勢平氏(桓武平氏の一系統)の平正盛である。

⇒「義親の追討使となって抜群の武勇を示した」というのは本当だろうか、と強い疑問が呈されていることに、坂井は触れるべきでした。(太田) 

 正盛は恩賞として但馬守という等級の高い国の受領に任じられ、源平両氏の明暗はくっきりと分かれた。

⇒その上で、どうして、正盛がこんな破格の恩賞にありつけたかも説明して欲しかったですね。
 私は、正盛が白河につかませた賄賂の賜物だと思っている(コラム#省略)わけですが・・。(太田)

 ただ、彼らはまだ地方武士を組織化する段階にはなく、都とを拠点として活動する軍事貴族「京武者(きょうのむしゃ)」であった。

⇒「関東は、承平・天慶の乱を契機に成立した軍事貴族の貞盛流平氏・秀郷流藤原氏・清和源氏のうち、貞盛流平氏と秀郷流藤原氏の間で分割が行われていました。そして、平忠常の乱が起こると、清和源氏の源頼信(河内源氏祖)が関東に勢力を伸ばしましたが、貞盛流・秀郷流は地方軍事貴族としての道を選び、河内源氏は中央の軍事貴族=京武者としての道を選びます。」
https://www.chunengenryo.com/togoku_genji_katudo/
というような言い方がよくなされますが、私は、天皇家/藤原北家が、関東において、藤原氏、ついで桓武平氏、が、魁を務め、その上で清和源氏を迎え入れてその、摂津源氏と河内源氏、の(摂津源氏と河内源氏それぞれの)嫡流併せて二流を武家の棟梁家候補として戴く、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B0%8F ←一切、嫡子番号が付されていない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E5%92%8C%E6%BA%90%E6%B0%8F ←一部付されている。
というシナリオに基づいて歴史を進展させようとしてきた、と見ている(コラム#省略)わけです。(太田)

 そして、院御所の北面に祇候<(注13)>(しこう)して「北面の武士」となり、院の軍事力を担った。

 (注13)=伺候。「謹んで貴人のそば近く仕えること。・・・謹んでご機嫌伺いに上がること。」
https://kotobank.jp/word/%E7%A5%97%E5%80%99%E3%83%BB%E4%BC%BA%E5%80%99-280913

 寺社では、南都北嶺すなわち興福寺・延暦寺が、春日社の神木・日枝<(注14)(コラム#11192、11350)>社の神輿(しんよ)という宗教的権威を振りかざし、武装した僧兵とともに理不尽な要求をする強訴を繰り返した。」(10~12)

 (注14)「日吉大社(ひよしたいしゃ)は、滋賀県大津市坂本にある神社。・・・かつては日吉社(ひえしゃ)と呼ばれていた。・・・・全国に約3,800社ある日吉・日枝・山王神社の総本社である。通称として山王権現とも呼ばれる。猿を神の使いである神猿(まさる)とする。・・・社名の「日吉」はかつては「ひえ」と読んだが、第二次世界大戦後は「ひよし」を正式の読みとしている。・・・
 延暦寺が勢力を増してくると、やがて日吉社と神仏習合する動きが出て、日吉社の神は唐の天台宗の本山である天台山国清寺で祀られていた山王元弼真君<(げんひつしんくん)>にならって山王権現と呼ばれるようになり、延暦寺では山王権現に対する信仰と天台宗の教えを結びつけて山王神道を説いていくようになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%90%89%E5%A4%A7%E7%A4%BE
 「山王元弼神君<は、>天台山国清寺の地主神。周の霊王の王子晋とされる。国清寺は元は、晋の邸宅地だった由。王子は仙人となり、その数百年後に天台宗祖の天台智顗に会って受戒し、天台山の守護神となったという。また『天台記』によれば、王子は周の霊王の太子喬、字は子晋であるとし、道人の浮丘公の弟子となり、嵩山に入って行方不明になったとする。のち、南北朝時代、治華山に白鶴に乗って現れ、天帝のもとで桐柏真人、右弼王、領五岳司などの仙官を歴任したと語ったという。八世紀前半、玄宗皇帝が天台山に元弼真君を祀る山王真君壇を築く。十世紀初頭、天台宗の僧、従礼が民間に元弼真君信仰を広める。最澄が天台山に留学した際、この山王という言葉を持ち帰っており、山王一実神道の「山王」もここに由来する。また、日本の寺社で笙の笛を吹き、白鶴に乗る仙人の像があれば、それは太子喬、すなわち元弼真君である、とか。」
https://w.atwiki.jp/zsphere/pages/535.html

(続く)