太田述正コラム#11594(2020.10.14)
<坂井孝一『承久の乱』を読む(その4)>(2021.1.6公開)

 「・・・1113<年>、白河は関白忠実の娘、19歳の勲子<(注16)>(くんし)(のちに泰子(たいし)と改名)を11歳の鳥羽天皇に入内させようと動いた。

 (注16)1095~1156年。「摂政関白太政大臣・藤原忠実・・・の三女。・・・同母弟に摂政関白・藤原忠通・・・、異母弟に左大臣・藤原頼長・・・がいる。・・・
 1108年・・・頃、8歳年下の幼帝・鳥羽天皇に入内するよう時の治天の君・白河院に命ぜられたが、父・忠実はこれを固辞する。・・・1113年・・・にも再び入内の話が具体化し、同時期に嫡男・忠通と白河院の愛妾・祇園女御の養女・藤原璋子(閑院流藤原公実の娘、のちの待賢門院)との縁談も進む。・・・しかし忠実は、璋子が性的奔放という噂を耳にし、忠通と璋子の婚姻を断ってしまう。これに対し白河院は、・・・1118年1月6日・・・に代わりに璋子を鳥羽天皇のもとに入内させ、わずか1か月後の・・・同年2月18日・・・には中宮に立てられたことで、勲子ら他の女性の入内を禁じられた。
 ・・・1120年・・・、白河院が熊野御幸に出ている間に、今度は忠実から鳥羽天皇に対して直接勲子の入内を打診する。白河院からの自立を模索していた鳥羽天皇は前向きに返答したが、これが白河院に漏れたことで忠実は関白と兼職の内覧を罷免され、宇治隠居を余儀なくされた(保安元年の政変)。・・・
 [<すなわち、>法皇は京都郊外の鳥羽殿に帰還した後に忠実に使者を派遣して「娘の入内は全くあるべからず」と伝えると共に事の真偽を問いただした。忠実は1年前にその話があったが法皇が不機嫌になられたと聞き、法皇が入内に同意していないことは承知していると返答した・・・。ところが、11月12日に法皇が京内にある璋子の里第である三条烏丸殿に入った直後に法皇は忠実に対する勅勘処分と内覧職権の停止を命じたのである。三条烏丸殿には数日前から璋子が滞在しており、改めて彼女に対して事の真偽を問いただしたとみられている。ここで璋子は天皇から娘の入内を求められた忠実が承知して自分のライバルになる后が入内することが決まったことを「父」である法皇に訴えたと想定され、それを聞いて忠実が虚言を述べていると激怒した法皇が忠実の罷免を決めたと推測される。ただし、本当に虚言を述べたのが忠実だったのか璋子だったのかは不明である。
 娘の入内のために天皇と秘かに話を進めたことが白河法皇の目からは治天の君の権限に対する侵害とも自分に対する裏切り行為とも映った可能性がある。反面、璋子と忠実が不仲であったのも事実であり、彼女が自分を嫌う忠実を失脚させるためにあたかも入内の話が進んでいるかのように法皇に伝えた可能性も否定できない<。>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E5%AE%89%E5%85%83%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%94%BF%E5%A4%89 ]
 1129年・・・7月7日に白河法皇が崩じたことは運命に転機をもたらした。長く宇治に籠居していた忠実は政界に復帰し、鳥羽院政の下、摂関家は権威回復に着手した。その一環として浮上したのが、勲子の入内である。鳥羽上皇は忠実の要望を容れ、勲子が39歳の高齢であるにもかかわらず・・・1133年・・・6月29日に彼女を入内させる。・・・1134年・・・3月2日には廷臣の反対を退けて上皇の妃ながらに女御宣下を与え、同月19日にはこれまた異例中の異例として皇后宮に冊立したのである。この時、泰子と改名。・・・1139年・・・7月28日、泰子は院号宣下を受け、御所名に由来する高陽院を称した。・・・
 <ちなみに、彼女は、>極端な男嫌いであったことが伝えられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%B3%B0%E5%AD%90

 当初は天皇の外戚になるチャンスを得て喜んだ忠実であったが、やがて態度を硬化させ、入内はご破算になった。
 変心の理由は定かではないが、白河の女性関係の奔放さを懸念した可能性がある。
 50人以上のご落胤がいたともいわれる白河である。
 うら若い勲子を求めているのが白河自身なのではないか、と疑心暗鬼に陥ったのかもしれない。

⇒この部分は、坂井自身による新説である可能性がありますが、「注16」の記すようにその5年ほど前に、この話が一度ご破算になっているという経緯があることに加え、父親の白河と息子の鳥羽が一緒に住んでいるわけでもないのに、息子の「嫁」である勲子にどうやって手を出すのか、上皇が、天皇の御所ないしは勲子の里の忠実邸に、勲子目当てに、密かに夜間「通う」わけにもいかないでしょうから、常識的に、この坂井説は成り立たないでしょう。
 そもそも、当時の、というか、いつの時代でも、上皇や天皇や摂関クラスともなれば、昨今の芸能人ではあるまいし、感情の赴くままではなく、ハイポリティックスも考慮して言動を律しようとするものなのであり、私見では、聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想に基づき、治天の君が、特定の武家の棟梁に白羽の矢を立て、その棟梁への権力の委任を完了させるまでの間、治天の君による権力独占を続けるためには、摂関家が天皇の外戚にならない状態を維持する必要がある一方で、どうして摂関家がその女子を天皇ないしは次期天皇クラスに入内させないのだ、という疑問を一般の公家等の間で起こさせないよう、入内の話はあっても種々の事情で破談になったという物語を天皇家側と摂関家側の合意と協力の下ででっち上げる必要があったからではないでしょうか。
 そう考えてくると、保安元年の政変は異常なのであり、「注16」の記すように「璋子と忠実が不仲であったの<が>事実であ」ったすれば、お手付きらしき璋子を息子の鳥羽に(子種付きで?)「下賜」したところの、脛に傷を持つ白河としては、璋子による、(恐らくは、夫で年下の鳥羽を言いくるめた上で行った)讒言、を真に受け(たふりをせ)ざるを得ない立場だった、ということではないでしょうか。
 では、どうして、39歳の時にもなって、勲子は鳥羽に入内する運びになったのでしょうか。
 一つは、当時としては彼女が高齢で子供ができる可能性がそもそも少なかったことに加え、より決定的なこととして、その頃までには、「注16」から窺えるように、彼女が無性愛(asexuality)者であったことがはっきりしてきており、そのことも、忠実は鳥羽に伝え、絶対に子供はできない、つくらない、という了解が両者の間に成立していたからこそでしょう。
 要するに、それは、勲子は皇后位という最高の名誉ある称号と処遇(だけだが、それら)を享受でき、忠実も(かつて、白河から勅勘をくらっている立場であるだけになおさら)摂関としてかつ親として面目を施すことができ、鳥羽は、結果的に勲子に迷惑をかけ続けたことへの罪滅ぼしができる、という一石三鳥の効果があった、というわけです。(太田)

 ・・・1117<年>、閑院流藤原氏の公実の娘、17歳の璋子(しょうし)が15歳となった鳥羽に入内すると、それは現実のものとなった。
 父の病没後、白河の養女として育てられた璋子は、入内しても鳥羽と同衾せず、すぐに白河の御所に戻ってしまったのである。
 ほどなく璋子は鳥羽の第一皇子顕仁(あきひと)<・・後の崇徳天皇・・>を産む。
 しかし、顕仁には白河の子だという噂が絶えなかった。」(13)

(続く)