太田述正コラム#11602(2020.10.18)
<坂井孝一『承久の乱』を読む(その8)>(2021.1.10公開)

 「・・・妻の時子が二条の乳母であった清盛<は、>・・・すでに・・・1161<年>9月、時子の妹平滋子(しげこ)(のちの建春門院(けんしゅんもんいん))が後白河の寵愛を受けて憲仁(のりひと)<=後の高倉天皇>を産んでいたこともあり、後白河への心遣いも忘れなかった。
 千体の千手観音像(せんじゅかんのんぞう)を安置した蓮華王院本堂、いわゆる三十三間堂を後白河のために造進したのである。・・・

⇒それは、後白河院政の下、後白河が治天の君だったからだ、と、私は単純に考えています。(太田)

 ところが、・・・1165<年>6月25日、二条が病のため皇子順仁(のぶひと)に譲位、7月に23歳で死去した。

⇒だから、この譲位も、二条ではなく後白河の意思による、と、私は見ています。
 瀕死の二条が最後の気力を振り絞って前例のない幼児への譲位(後述)を決行しようとし、それに成功した、とは考えにくいからです。(太田)

 新天皇はわずか2歳の六条である。
 祖父後白河が院政を敷き、治天の君としての権威を確立するべく、寵妃平滋子との間にもうけた憲仁の皇位継承へと動く。

⇒後白河が、わざわざ、六条を「歴代最年少で・・・皇位へ・・・即位」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E6%9D%A1%E5%A4%A9%E7%9A%87
させたのは、日本が院政下にあり、自分が治天の君であることを国中に周知させることが狙いだったのではないでしょうか。(太田)

 憲仁の外伯父にあたる清盛も後白河との協調へと舵を切った。

⇒いくら清盛に財力と武力があり、しかも清盛が後白河の祖父の白河のご落胤だったとしても、平滋子の高棟流の堂上平氏は貴族としてはうだつが上がらない部類に属し、しかも、清盛の高望流の武家平氏とは、殆ど関係がなきに等しい、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B0%8F
という前提の下、清盛の正室(継室)の時子と滋子とがたまたま姉妹であったとはいえ、異母姉妹であって、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%99%82%E5%AD%90
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%BB%8B%E5%AD%90
恐らく乳母も別で、いずれにせよ、一緒には育っていなかったはずだ、ということもあり、どうして、六条<(注22)>から順仁(高倉)に天皇を切り替えることが、後白河の「権威を確立する」ことに繋がるのかを、滋子や清盛を持ち出したって説明できない、と私は思います。

 (注22)1164~1176年(天皇:1165~1168年)。「母は松尾大社家の大蔵大輔伊岐致遠女・・・<と、>母の身分が卑しかった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E6%9D%A1%E5%A4%A9%E7%9A%87 前掲
 「歴代天皇の中で生母の実名が不明というのはこの天皇のみ」
https://ameblo.jp/fall1970/entry-12130984605.html

 六条の母に問題があるというのなら、遡って、どうして、後白河は、六条を天皇にしたというのでしょうか。
 六条の父親たる自分の子の二条(天皇)の母親の藤原懿子の父親の公実は正二位・権大納言だった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%85%AC%E5%AE%9F
のに対し、滋子(と時子)の父親の平時信は、正五位下・検非違使・兵部権大輔に過ぎず、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%99%82%E4%BF%A1
両者は、その母系の貴族としての地位に天と地ほどの差があったところ、六条はその「天」の方の所産であった二条の子だったのですからね。
 以上から、後白河は、今度は、わざわざ、その六条を「叔父の憲仁親王(高倉天皇)に譲位<させ>て歴代最年少の太上天皇と<する>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E6%9D%A1%E5%A4%A9%E7%9A%87 前掲
ことによって、院政がいかなるものであるかを、ダメ押し的に日本中に周知さた、というのが私の見方なのです。(太田)

 その結果、同<1165>年8月17日、清盛は公卿以外の血統で、初めて権大納言に昇任することになる。
 翌・・・1166<年>、関白から摂政にスライドしていた基実が24歳で死去した。
 幼少の嫡子基通に代わって基実の弟松殿基房が摂政となる。
 そうした中、<1169>年、後白河は六条から憲仁への譲位を実現した。
 高倉天皇、8歳の践祚である。
 皇位選定を主導し、幼帝の父となった後白河は治天の君の権威を手に入れ、本格的な院政を開始する。

⇒繰り返しますが、後白河は、ずっと「本格的な院政」を行ってきたのです。(太田)

 併行して清盛は、・・・1166<年>11月に内大臣、翌<1167>年2月には従一位、太政大臣へと異例の昇進を遂げた。
 あまりの異例さに、清盛は白河のご落胤だという説まで生まれた。
 勲子の入内問題で忠実が白河の女性関係に疑惑を持ったように、人々はあり得ないことではないと感じたのであろう。
 元木泰雄氏は、公卿も破るのが難しい大臣昇進の壁を、清盛がいとも容易く破ったことに皇胤説の真実味があるとみるが、真偽はわからない。

⇒権大納言就任から太政大臣就任まで一年半、という事例が少なくともそれまでにあったか、を調べ、それが空前のことであったという事実を踏まえた上で、元木らが、清盛の白河落胤説を裏書きしている、という前提の下でですが、それならば、それは真実だと考えざるを得ないでしょう。
 換言すれば、後白河もそう信じていたからこそ、治天の君の力を見せつけることを目的に、清盛の大抜擢をやってのけてみせた、ということではないでしょうか。(太田)

 清盛の太政大臣補任と同時に権大納言に昇任した長男重盛は、5月、賊徒追討の宣旨を受けて平氏軍政の中心に立った。
 清盛は名誉職的意味合いの太政大臣を辞し、翌<1169>年、病気を機に出家した。・・・」(22~23)

(続く)