太田述正コラム#11610(2020.10.22)
<坂井孝一『承久の乱』を読む(その12)>(2021.1.14公開)

 「治承4年(1180)5月、後白河の第二皇子以仁王<(注35)>と摂津源氏の源頼政<(注36)>による平家打倒計画が発覚した。

 (注35)1151~1180年。「後白河天皇の第三皇子だが、『平家物語』では兄の守覚法親王が仏門に入ったため第二皇子とされている。同母姉に歌人として名高い式子内親王がいる。母親は藤原季成の娘・成子。
 幼くして天台座主・最雲法親王の弟子となるが、・・・1162年・・・に最雲が亡くなり還俗。・・・<後白河の同母姉の>八条院暲子内親王の猶子となる。・・・皇位継承において有力候補であったが、異母弟である憲仁親王(のちの高倉天皇)の生母であり権勢を誇った平滋子(建春門院)の妨害に遭って阻止されたという。
 特に・・・1166年・・・、母方の伯父である藤原公光が権中納言・左衛門督を解官されて失脚したことで、以仁王の皇位継承の可能性は消滅し、親王宣下も受けられなかった。
 [<そして、1178年12月の(高倉天皇の子である)>安徳天皇の即位でその・・・皇位への・・・望みが全く絶たれてしまった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%94%BF]
 ・・・1179年・・・11月、平清盛はクーデターを起こし後白河法皇を幽閉、関白・松殿基房を追放するが(治承三年の政変)、以仁王も長年知行してきた城興寺領を没収された。治承4年(1180年)4月、ついに平氏討伐を決意した以仁王は、源頼政の勧めに従って、平氏追討の令旨を全国に雌伏する源氏に発し、平氏打倒の挙兵・武装蜂起を促した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%A5%E4%BB%81%E7%8E%8B
 藤原公光(きんみつ。1130~1178年)は、「権大納言・藤原季成の嫡子<。>・・・1158年・・・に参議に任ぜられて公卿に列する。同年二条天皇の即位に伴い侍従に任ぜられて天皇の身辺に仕えると共に、姉妹・成子が後白河上皇の寵愛を受けたこともあって、院司として上皇にも接近した。院司として・・・1159年・・・従三位、・・・1161年・・・正三位、・・・1163年・・・従二位と昇叙され、権中納言・検非違使別当・左衛門督と顕要の職を占めた。
 しかし、・・・1165年・・・父・季成の死後、・・・1166年・・・権中納言・左衛門督の職を解かれて失脚する。その理由は不明だが、甥の以仁王が前年・・・元服しており、子の憲仁親王(後の高倉天皇)の即位を目論む建春門院平滋子の恨みを買ったともいわれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%85%AC%E5%85%89
 (注36)1104~1180年。「保元の乱の前年、・・・1155年・・・には関東で義朝の長男・義平と争い大蔵合戦で討ち死にした源義賢の長男・仲家(木曾義仲の<異母>兄)を・・・養子にしている。また保元の乱の翌年、・・・1157年・・・には頼政の<同母>弟の頼行が、突然罪を受けて流罪となり自害する事件が起きた。頼政は頼行の子の源宗頼・源政綱・源兼綱を養子にしている。・・・
 挙兵の動機について、『平家物語』では<息子の>仲綱の愛馬を巡って清盛の三男の平宗盛がひどい侮辱を与えたことが原因であるとし、頼政は武士の意地から挙兵を決意して夜半に以仁王の邸を訪ね、挙兵をもちかけたことになっている。一方で、代々の大内守護として鳥羽院直系の近衛天皇・二条天皇に仕えた頼政が系統の違う高倉天皇・安徳天皇の即位に反発したという説もある。・・・
 <1180>年4月、頼政と以仁王は諸国の源氏と大寺社に平氏打倒を呼びかける令旨を作成し、源行家(為義の十男)を伝達の使者とした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%94%BF 前掲
 
 以仁王の乱である。
 追討を受けて南都を目指した以仁王と頼政は、宇治で合戦となり敗死した。・・・」(33)

⇒私の現時点における(大胆過ぎるかもしれない)仮説は次の通りです。
 1160年の保元の乱後の1162年に以仁を還俗させたのも、その後、自分の同母姉の暲子内親王の猶子としたのも後白河であり、これは、清盛が平家による摂関政治的なものの復活を意図していることを見抜き、そんな歴史の逆行を許さないよう、平家とは無縁の天皇を機会を見て即位させるのが狙いであった、と。
 (その乳母が清盛の妻の時子であったことから、既に高倉天皇にも平家色がついてしまっていました。)
 だからこそ、清盛は、(恐らくは歴代天皇に圧力をかけて)その親王宣下すら妨げるといった形で、以仁王の天皇即位の芽を摘み続けたのである、と。
 しかも、清盛は、念が入ったことに、治承三年の政変のどさくさに、理由もなく、以仁王の知行領まで取り上げてしまった、と。
 一方、後白河の方は、内紛の絶えない河内源氏に見切りを付け、大内守護を務めてきた摂津源氏にしかるべき時に武家の総棟梁として白羽の矢を立ててその総棟梁に権力移譲を行おうと考え始め、「注36」からも分かるような、頼政の、河内源氏すら包摂しようとする姿勢を見て、ついに決断を下し、(恐らくは)近臣の多田行綱をして頼政にその旨を伝えさせると共に、以仁王を使って平家打倒を図れ、と、伝えさせたのではないか、と。
 ところが、この企てが漏れてしまい、以仁王ともども、頼政もその嫡男の仲綱も、更に仲綱の嫡男の宗綱も、はたまた、頼政の養子の(同じ摂津源氏で甥の)兼綱も(河内源氏で義仲の兄の)仲家も戦死してしまい、(仲綱の次男の有綱とその弟で四男の成綱こそ、伊豆にいて生き残り、頼朝の挙兵に参加しますが、)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E4%BB%B2%E7%B6%B1
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E5%85%BC%E7%B6%B1
後白河は計画を全面的に白紙に戻さざるを得なくなった、とも。(太田)

(続く)