太田述正コラム#11614(2020.10.24)
<坂井孝一『承久の乱』を読む(その14)>(2021.1.16公開)

 「1183<年>10月、後白河は頼朝を勲功第一と認定<(注39)>、その東国支配権を公認する10月宣旨を出した。

 (注39)「1183年・・・7月・・・30日開かれた公卿議定において、勲功の第一が頼朝、第二が義仲、第三が行家という順位が確認され、それぞれに位階と任国が与えられることになった。同時に京中の狼藉の取り締まりが義仲に委ねられることになる。・・・
 8月20日に四之宮<(後鳥羽天皇)>が践祚した。・・・
 後白河法皇は・・・<9月>19日に・・・義仲を・・・平家追討に・・・出陣させた。・・・
 10月・・・14日には寿永二年十月宣旨を下して、<頼朝に>東海・東山両道諸国の事実上の支配権を与える。・・・
 驚いた義仲は平氏との戦いを切り上げて、15日に少数の軍勢で帰京する。20日、義仲は君を怨み奉る事二ヶ条として、頼朝の上洛を促したこと、頼朝に宣旨を下したことを挙げ、「生涯の遺恨」であると後白河院に激烈な抗議をした。・・・
 19日の源氏一族の会合では法皇を奉じて関東に出陣するという案を出し、26日には興福寺の衆徒に頼朝討伐の命が下された。しかし、前者は行家、土岐光長の猛反対で潰れ、後者も衆徒が承引しなかった。義仲の指揮下にあった京中守護軍は瓦解状態であり、義仲と行家の不和も公然のものだった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E4%BB%B2
 「義仲に従ったのは子飼いの部下を除くと、志田義広と近江源氏だけだった。義広は義仲滅亡後も抵抗を続けるが、・・・1184年・・・5月4日に鎌倉軍との戦闘で討ち取られる。近江源氏の山本義経は法住寺合戦後に若狭守に任じられるが、その後の消息は不明である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E4%BD%8F%E5%AF%BA%E5%90%88%E6%88%A6

 頼朝の政治交渉の成果である。

⇒私見では、そうではなく、清和源氏の武家のうち、分家中のスペアの当主たる頼政/仲綱を武家総棟梁に認定する計画が1180年に失敗したため、1183年になって、止む無く、本家の当主たる頼朝を武家総棟梁に認定した、ということであり、頼朝の政治交渉の成果などではありえないのです。
 源氏の本家の棟梁が頼朝であることは、清和源氏の武家達にとって周知のことであり、法皇が二度にわたって頼朝を嘉した以上、義仲の孤立は、彼がクーデタを起こす以前に既に決定的なものになっていたはずです。(太田)
 
 激怒した義仲は、11月<19日>、後白河の院御所法住寺殿を攻めて軍事クーデターを敢行した<(注40)>。

 (注40)「院側は土岐光長・光経父子が奮戦したが、義仲軍の決死の猛攻の前に大敗した。・・・ 21日、義仲は松殿基房(前関白)と連携して・・・22日、基房の子・師家を内大臣・摂政とする傀儡政権を樹立した。・・・
 10日には源頼朝追討の院庁下文を<新摂政・師家に>発給させ、形式的には官軍の体裁を整えた。・・・
 1184年・・・15日には自らを征東大将軍に任命させた。平氏との和睦工作や、後白河法皇を伴っての北国下向を模索するが、源範頼・義経率いる鎌倉軍が目前に迫り開戦を余儀なくされる。義仲は京都の防備を固めるが、法皇幽閉にはじまる一連の行動により既に人望を失っていた義仲に付き従う兵は無く、宇治川や瀬田での戦いに惨敗した(宇治川の戦い)。
 戦いに敗れた義仲は今井兼平ら数名の部下と共に落ち延びるが、20日、近江国粟津(現在の滋賀県大津市)で討ち死にした(粟津の戦い)。」(上掲)

 後白河から義仲追討を要請された頼朝は弟の範頼・義経を差し向け、<1182年>1月、近江の粟津で義仲を敗死させた。」(37)

⇒勲功だけをとれば、「頼朝<が>勲功第一と認定」できるか微妙であっただけに、義仲が激怒した気持ちは分からないでもありませんが、要はこの義仲、軍事の能力は高くても、「宮中の政治・文化・歴史への知識や教養がな」さ過ぎた(上掲)のです。
 法住寺合戦については、下の囲み記事も参照。↓

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[法住寺合戦]

 院側の方が兵力では勝っていたにもかかわらず、「この戦いで、明雲、円恵法親王、源光長・光経父子、藤原信行、清原親業、源基国などが戦死し<、院側は敗北し>た。・・・
 院御所の襲撃は平治の乱の前例があるが、藤原信頼の目的はあくまで信西一派の捕縛だった。今回の襲撃は法皇自らが戦意を持って兵を集め、義仲もまた法皇を攻撃対象とし、院を守護する官軍が武士により完膚なきまでに叩き潰されたと言う点でかつてないものであり、およそ40年後の承久の乱に先駆けるものであった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E4%BD%8F%E5%AF%BA%E5%90%88%E6%88%A6

(続く)