太田述正コラム#11620(2020.10.27)
<坂井孝一『承久の乱』を読む(その17)>(2021.1.19公開)

 海路西国を目指すも途上暴風雨に会い、船団は難破、一行は散り散りになり、義経は行方をくらませ、妾の静御前が吉野山で捕らえられている。
 なお義経を九州に迎えようと岡城を築いていた豊後国の緒方惟栄は上野国沼田に配流され、豊後国は一時関東御分国となった。
 [<義経は、>11月7日には、検非違使伊予守従五位下兼行左衛門少尉を解任される。]
 11月8日、頼朝は都へ使者を送ると、黄瀬川を発って鎌倉へ戻る。11月上旬、義経・行家と入れ替わるように上洛した東国武士の態度は強硬で、院分国の播磨国では法皇の代官を追い出して倉庫群を封印している。11日、頼朝の怒りに狼狽した朝廷は、義経・行家追捕の院宣を諸国に下した。

⇒狼狽したわけでは全くないのであって、後白河/基通による義経・行家追捕の院宣の発令は予定の行動であったはずだ。(太田)

12日、大江広元<(注43)>は処置を考える頼朝に対して「守護・地頭の設置」を進言した。これに賛同した頼朝は、周章する朝廷に対し強硬な態度を示して圧力をかける。

 (注43)1148~1225年。「広元の出自は諸説あり、その詳細は不明。『江氏家譜』では藤原光能の息子で、母の再婚相手である中原広季のもとで養育されたという。しかし『尊卑分脈』所収の「大江氏系図」には大江維光を実父、中原広季を養父とし、逆に『続群書類従』所収の「中原系図」では中原広季を実父、大江維光を養父としている。・・・
 親能の縁で広元も頼朝の拠った鎌倉へ下り、公文所の別当となる。さらに頼朝が二品右大将となり、公文所を改めて政所としてからは、その別当として主に朝廷との交渉にあたり、その他の分野にも実務家として広く関与した。」
 出羽国寒河江氏、信濃国上田氏、安芸毛利氏、等の租。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B1%9F%E5%BA%83%E5%85%83
 その兄の中原親能(ちかよし。1143~1209年)は、「源頼朝の側近であり、頼朝の代官として東西に奔走し、朝廷と幕府の折衝に努め、幕府の対公家交渉で大きな功績を果たした。また、大友氏が九州に確固たる地盤を築き上げることができたのも、その初代大友能直の養父である親能からの相続に起因しているという説がある。・・・
 『大友家文書録』<は>、実父は参議・藤原光能である<としている。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%8E%9F%E8%A6%AA%E8%83%BD
 この、大江兄弟の「父」の藤原光能(1132~1183年)は、「藤原北家御子左流・・・。官位は正三位・参議。・・・右近衛少将・・・右近衛中将・・・右兵衛督・・・左兵衛督<と、武官職を歴任している。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%85%89%E8%83%BD 
 その父の藤原忠成(1091~1158年)は、「正五位下・民部大輔止まり<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BF%A0%E6%88%90
 その父の藤原俊忠(1073~1123年)は、「左<近衛>中将<と、武官職を経験している。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BF%8A%E5%BF%A0
 その父の藤原忠家(1033~1091年)は、「近衛少将・・・右衛門督<と、武官職を歴任している。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BF%A0%E5%AE%B6
 その父の藤原長家(1005~1064年)は、「道長の六男。・・・御子左家の祖。・・・右近衛少将・・・右近衛中将<と、武官職を歴任している。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%95%B7%E5%AE%B6
 ちなみに、忠成の母の父の藤原敦家(1033~1090年)は、「右近衛少将・・・左馬頭<と、武官職を歴任している。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%95%A6%E5%AE%B6
 その父の藤原兼経(1000~1043年)は、「右兵衛佐・・・左近衛権少将<と、武官職を歴任している。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%85%BC%E7%B5%8C
 その父の藤原道綱(955~1020年)は、「道長<の兄。>・・・右馬助・左衛門佐・左近衛少将といった武官を歴任するが、正妻腹の異母兄弟である道隆・道兼・道長らに比べて昇進は大きく遅れた。・・・
 藤原道綱母が著した『蜻蛉日記』<は有名。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%81%93%E7%B6%B1
 もう一つちなみにだが、俊忠のもう一人の子である、歌人として有名な藤原俊成(1114~1204年)も、その兄の忠成同様、一切武官職に就いていない
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BF%8A%E6%88%90
が、その子の藤原成家(1155~1220年)は、「右近衛少将・・・右近衛中将・・・兵部卿<と、武官職を歴任している>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%88%90%E5%AE%B6
し、その弟の、やはり歌人として有名な藤原定家(1162~1241年)もまた、「左近衛少将・・・左近衛権中将<と、武官職を歴任している。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%9A%E5%AE%B6

⇒「守護・地頭の設置」は、大江広元が自分で考えたのではなく、出元は後白河/摂関家(藤原基通)で、そもそも、桓武天皇構想において、最終的な武家の総棟梁への権力移譲の際の基本的考え方の中に、粗々ながら含まれていた、と、私は考えるに至っている。
 その背景についての私論を記しておく。
 『江氏家譜』は、1742年に完成した、毛利氏のいわば公定家譜だが、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E7%94%B0%E6%94%BF%E7%B4%94
私は、毛利氏の先祖を藤原北家御子左家としたのは、毛利氏の願望の表明という側面もあっただろうが、案外真実かもしれない、と思うに至っている。
 (広元の兄の親能についての、大友氏の認識もそのことを裏づけている。)
 というのも、道長が、いずれ、摂関政治が院政に移行し、更に、武家の総棟梁に権力移譲、という運びとなった暁には・・というところまでは相当ぼかして伝えただろうが・・、その総棟梁を行政官僚として支えると共にその総棟梁と朝廷との連絡に任ずる人物(群)、また、当然ながらその時点で武家化する人物(群)、を藤原北家が提供すべく、自分の六男の長家に対し、その子孫に対して、武官職を経験するように摂関家が取り計らう(「注43」参照)・・摂関家自身は別にして、藤原北家、ひいては藤原氏全体の各系統の補職傾向との比較まではしていないが、少なくとも、武官職、非武官職を問わず、一定以上の官位/官職の保証は行ったのではないか・・が、何よりも上記の来るべき日に備える心の準備をさせよ、と命じると共に、長家の子孫達を側面がら支援するよう、異母兄の道綱に、その子孫に心掛けさせるよう依頼した、という仮説が成り立つのではないか、と、私は思うに至っているからだ。
 歌道を筆頭とする諸芸の元締めの家という御子左家のイメージ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%AD%90%E5%B7%A6%E5%AE%B6
は、この、道長由来の密命を隠蔽するための絶好の隠れ蓑に、意図的にせよ結果としてにせよ、なったのではないか、と。
 それにしても、生年がはっきりしている大江兄弟の素性が定まっていないというのは異常だと言わざるを得ないが、それは、大江兄弟のうち、最初に東くだりをした兄の方が、頼朝に頼み込んで、事実と異なる素性を流布させるように取り計らってもらったからであり、その目的は、藤原北家の御子左家、ひいては、後白河が、頼朝を積極的にサポートすることにした、と、世間に絶対に受け取られないようにするためだった、とも。
 (当然のことながら、例えば、木曾義仲のところには、大江兄弟に相当するような公家の積極的合力は全くなされていない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E4%BB%B2 
 なお、大江兄弟は、本来、源頼政/仲綱のところに「派遣」される予定であったところ、頼政の挙兵計画が露見し、彼らが討たれてしまったために、急遽、頼朝のところへと振り替えられた、と考えたらどうだろうか。)
 そんな、大江兄弟の子孫ないし子孫筋から、大友氏や毛利氏といった大大名等が輩出した(「注43」)のは、ある意味、当然のことだった、というべきだろう。
 私は、それは、江戸時代末における毛利氏の、(武家の最後の総棟梁家とも言うべき)島津氏(コラム#省略)と最終的に手を取り合ったところの、幕末における、尊王倒幕、の伏線になっている、とさえ、思うに至っている次第だ。
 私が以前指摘したように、天皇家から武家に「降下」したのが後であればあるほど「貴い」(コラム#省略)のだとすれば、藤原氏の北家のしかも摂関家出で、恐らく一番後になって天皇家/藤原氏から武家に「降下」した諸家中、最も大身でしかも幕末まで続いた毛利家の格式意識の高さが容易に想像がつく、というものだ。(太田)

(続く)