太田述正コラム#11624(2020.10.29)
<坂井孝一『承久の乱』を読む(その19)>(2021.1.21公開)

 「「大将軍」の号・・・<を>望<み、>・・・征夷大将軍に任官した翌年・・・1193<年>3月に後白河の一周忌が明けると、頼朝は・・・次々と大規模な狩りを催した。・・・
 ところが、5月28日、・・・富士の裾野の敵討・・・事件が起きた。・・・
 この事件では[伊東祐親の嫡男・河津祐泰・・<すなわち、>工藤祐経が祐親に送った2人の刺客に殺された<人物・・の息子達である曾我十郎祐成と曾我五郎時致によって>・・・工藤祐経(くどうすけつね)・・・だけでなく多数の御家人が死傷し、頼朝の身にも危険が迫ったらしい<(注45)>。

 (注45)「兄弟は酒に酔って遊女と寝ていた祐経を起こして、討ち果たす。騒ぎを聞きつけて集まってきた武士たちが兄弟を取り囲んだ。兄弟はここで10人斬りの働きをするが、ついに兄祐成が仁田忠常に討たれた。弟の時致は、頼朝の館に押し入ったところを、女装した小舎人の五郎丸によって取り押さえられた。・・・
 そこで、兄弟の後援者であった北条時政が黒幕となって頼朝を亡き者にしようとした暗殺未遂事件でもあったという説がある。また、伊東祐親は工藤祐経に襲撃される直前に自分の外孫にあたる頼朝の長男・千鶴丸(千鶴御前)を殺害しており、工藤祐経による伊東祐親父子襲撃そのものに息子を殺された頼朝による報復の要素があり、曾我兄弟も工藤祐経による伊東父子襲撃の背後に頼朝がいたことを知っていたとする説もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%BE%E6%88%91%E5%85%84%E5%BC%9F%E3%81%AE%E4%BB%87%E8%A8%8E%E3%81%A1 (上の本分中の[]内も)
 「伊豆国へ流罪となり、在地豪族の伊東祐親の監視下で日々を送っていた頼朝は、祐親が大番役で上洛している間に祐親の三女・八重姫と通じ、やがて男子を一人もうけて千鶴御前と名付けた。千鶴御前が3歳になった時、大番役を終えて京から戻った祐親は激怒し、「親の知らない婿があろうか。今の世に源氏の流人を婿に取るくらいなら、娘を非人乞食に取らせる方がましだ。平家の咎めを受けたらなんとするのか」と平家への聞こえを恐れ、家人に命じて千鶴を轟ヶ淵に柴漬(柴で包んで縛り上げ、重りをつけて水底に沈める処刑法)にして殺害し、娘を取り返して同国の住人・江間の小四郎に嫁がせた。さらに頼朝を討つべく郎党を差し向けたが、頼朝の乳母・比企尼の三女を妻としていた祐親の次男・祐清が頼朝に身の危険を知らせ、頼朝は祐清の烏帽子親である北条時政の邸に逃れたという。時政の下で暮らすようになった頼朝は、やがて時政の長女・政子と結ばれることになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E9%87%8D%E5%A7%AB_(%E4%BC%8A%E6%9D%B1%E7%A5%90%E8%A6%AA%E3%81%AE%E5%A8%98)

 将軍頼朝の支配体制に不満を持つ不穏分子が、事件に絡んでいた可能性が高い。
 頼朝は、この事件を機に弟の範頼<(注46)>、源氏一門の安田義定<(注47)>ら自分に代わり得る有力者や、政権内の不満分子を一掃した。・・・

 (注46)「この事件の直後、しばらくの間鎌倉では頼朝の消息を確認することができなかった。頼朝の安否を心配する妻政子に対して、巻狩に参加せず鎌倉に残っていた弟源範頼が「範頼が控えておりますので(ご安心ください)」と見舞いの言葉を送った。この言質が謀反の疑いと取られ、範頼は8月17日に伊豆修禅寺に幽閉され・・・その後・・・誅殺されたという。20日には祐成・時致の同腹の兄弟である原小次郎・・・が範頼の縁座として処刑されている。
 この事件の際に常陸国の御家人が頼朝を守らずに逃げ出した問題や、事件から程なく常陸国の多気義幹が叛旗を翻したことなどが、同国の武士とつながりが深かった範頼に対する頼朝の疑心を深めたとする説もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%BE%E6%88%91%E5%85%84%E5%BC%9F%E3%81%AE%E4%BB%87%E8%A8%8E%E3%81%A1
 (注47)「1193年・・・に義定<は>子の安田義資が[梶原景時に讒言され]院の女房に艶書を送った罪で斬られ、義定も所領を没収されている。同時に遠江国守護職も解職。翌・・・1194年・・・、義定は謀反の疑いで梟首された(永福寺事件)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E7%94%B0%E7%BE%A9%E5%AE%9A
https://kotobank.jp/word/%E5%AE%89%E7%94%B0%E7%BE%A9%E5%AE%9A-143715 ([]内)

⇒平家追討戦で大功績があった同族の3人を風評ないしはそれに毛が生えた程度の話で次々に誅殺した頼朝、ひいては頼朝家から御家人たる武士達の気持ちが離れて行ったところ、更に悪いことには、御家人筆頭の北条、就中その得宗家が、このような頼朝の諸悪行を、呆れながらも冷徹に眺めているうちに、次第にこういった諸悪行に慣れ、ついには「染まってしまい」、自分達もまた、それとそっくりの悪行(凶行)を同族内において、或いは同族以外を相手に、重ねていくことになった、と、私は見るに至っています。(太田)

 一方、朝廷では九条兼実のライバル村上源氏の公卿源通親<(注48)>(みちちか)が主導権を握り始めていた。

 (注48)1149~1202年。「村上源氏久我流・・・村上源氏は堀河天皇の治世では外戚として隆盛を極めたが、その後は<藤原北家>閑院流に押されて勢力を後退させていた。・・・
 1199年・・・<1>月・・・右近衛大将就任・・・6月22日・・・内大臣に任ぜられた。・・・
 <ちなみに、>長男・源通宗・・・の娘・通子と土御門天皇の間から後嵯峨天皇が誕生し、通親の一族は土御門・後嵯峨の2代の天皇の外戚になった。
 その後、新たに台頭してきた西園寺家に押されて通親時代の繁栄を取り戻す事はなかったが、それでも通親の子供達―通具・通光(嫡子)・定通・通方はそれぞれ堀川家・久我家・土御門家・中院家の四家に分かれ、堀川家と土御門家は断絶したが、久我家と中院家は明治維新にいたるまで家名を存続させ華族に列せられた。なお、北畠家は中院家の、岩倉家は久我家の庶流である。
 ・・・六男・・・は出家して道元と名乗る。彼が南宋から帰国して「曹洞宗」を開くのは通親の死から24年後の事である。
 ただし、道元の<出自を記載する、>・・・面山瑞方による訂補本『建撕記』の記載の信用性には疑義が呈されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%80%9A%E8%A6%AA

 通親<は、>・・・<自らの養女・>在子・・・が・・・1195<年>末に皇子為仁(ためひと)を産むと、翌年11月、兼実を失脚させる建久七年の政変<(注49)>を起こしたのである。」(40~42)

 (注49)「法皇崩御により九条兼実は後鳥羽天皇を後見・擁して朝政を主導するが、故実先例に厳格な姿勢や門閥重視の人事は中・下級貴族の反発を招き、しだいに朝廷内での信望を失っていった。通親は兼実に冷遇されている善勝寺流や勧修寺流の貴族を味方に引き入れ、丹後局を通して大姫入内を望む頼朝に働きかけ、中宮・任子を入内させている兼実との離間を図った。・・・1195年・・・11月、権大納言に昇進し、さらに自らの養女・在子が皇子(為仁、後の土御門天皇)を産んだことで一気に地歩を固めた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%80%9A%E8%A6%AA
 「<1196年>11月23日、中宮・任子<・・兼実の娘・・>は内裏から退去させられ、25日には兼実が上表の形式すらなく関白を罷免された。後任の関白には近衛基通が任じられた。・・・弟の慈円・兼房もそれぞれ天台座主・太政大臣を辞任した。・・・兼実の執政は法皇崩御から僅か4年余りで終焉することになった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E4%B9%85%E4%B8%83%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%94%BF%E5%A4%89

⇒「後白河法皇は末娘の宣陽門院を溺愛して、院領の中でも最大規模の長講堂領を伝領させたが、宣陽門院の生母・丹後局と宣陽門院執事別当の土御門通親は所領拡大のために、播磨国・備前国において荘園の新規立券を行った。兼実は・・・手始めにこの宣陽門院領の立荘を取り消した・・・。・・・<ところ、>1195年3月<に>・・・東大寺落慶供養に参列するため5年ぶりに上洛した・・・頼朝の申し入れにより長講堂領七ヶ所の再興が決定された。」(上掲)という史実は、天皇家の所領に関する関白の処断を頼朝が覆した、ということであり、これは、まさに、後白河から、頼朝が、武家の総棟梁指名をされ、権力を移譲され、日本の最高権力者になっていたことを裏づける出来事であるというべきでしょう。(太田)

(続く)