太田述正コラム#11630(2020.11.1)
<坂井孝一『承久の乱』を読む(その22)>(2021.1.24公開)

 「1216<年>、実朝は25歳になった。
 ・・・1204<年>末に御台所を迎えてから12年、・・・1209<年>の将軍親裁開始から7年の歳月が経った。
 にもかかわらず、実朝と御台所の間には一人の実子も生まれていない。
 しかも、父頼朝や兄頼家と違い、実朝は妾(しょう)つまり側室を持とうとしなかった。・・・
 実朝は自分に子供ができないと考えていたようである。・・・
 実朝<は、自分>の後継将軍に親王(後鳥羽の皇子)を請求するという策<をひねり出し>た。・・・
 1218<年>1月15日、政所で北条政子の熊野詣に関する審議があり、弟の時房<(注55)>が同行することになった。

 (注55)1175~1240年。「北条時政の子。北条政子・北条義時の異母弟。・・・
 1219年・・・、源実朝が暗殺されると上洛し、朝廷と交渉を行った末、摂家将軍となる三寅(藤原頼経)を連れて鎌倉へ帰還した。
 ・・・1221年・・・、承久の乱では、泰時とともに東海道を進軍して上洛。泰時同様京に留まり、初代六波羅探題南方となる。・・・1224年・・・に兄義時が死去すると先に鎌倉へ帰還した執権泰時の招聘で鎌倉に戻り、泰時を補佐するため請われて同年初代連署に就任する」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%99%82%E6%88%BF

 時房は在京経験があったと思われ、蹴鞠をはじめ都の文化的教養を身につけており、上洛経験のない政子を補佐するためであった。・・・
 政子の熊野詣の真の目的は、<傍証から、>後鳥羽の皇子を実朝の後継将軍として迎えるための交渉だったと考えられる。
 <そのため、>政治の表舞台に現われにくい女性の政子を交渉当事者に立て、熊野詣を名目に使ったのである。・・・
 <このように、>将軍以下、幕府<は>一体となって動いているのである。
 後鳥羽の後ろ盾を得て幕府の権威が高まり、朝幕の協調が進展すれば、最終的には御家人たちの利益になるということに気がついたのである。・・・」(92~94)

⇒通説なのかもしれませんが、どうして、坂井がこのように考えるのか、理解に苦しみます。
 実母が政子で、乳母が政子の妹の阿波局だったのですから、実朝に子供ができない精神的ないし肉体的な「問題」があることを政子が知っていたとすれば・・その可能性は大いにありますが・・、弟の北条義時の家系に幕府の実権を握らせるべく、政子は、まず、1203年に実子の頼家の長子の一幡を比企一族と共に殺害させ、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%B9%A1
次いで、翌1204年、幽閉中の頼家を殺害させ、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E5%AE%B6
その直後、頼家の四男の善暁を出家させ、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%85%E6%9A%81
1206年には頼家の次男の善哉(公暁)を実朝の猶子とした上で、1211年に出家させ、つまりは、第四代将軍になる希望を与えた上で奈落の底に落とし、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E6%9A%81
1213年には、三男の栄実を、泉親衡の陰謀に加担したとして出家させ、翌1214年に事実上誅殺させ、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%84%E5%AE%9F
1219年に、使嗾して公暁に(それまでに無論子供のできなかった)実朝を殺害させ、その後速やかに公暁も殺害させ、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E6%9A%81 前掲
禅暁に公暁に荷担したとの嫌疑をかけ、その上で、翌1220年、京都で禅暁を殺害させた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%85%E6%9A%81 前掲
ことによって、頼朝・政子の直系男子孫を根絶やしにした・・ちなみに、頼家の娘の「竹御所<は、>・・・1230年)、29歳で13歳の第4代将軍藤原頼経に嫁<いだところ、>夫婦仲は円満であったと伝えられる<ものの、>その4年後に懐妊し、後継者誕生の期待を周囲に抱かせたが、難産の末に男児を死産し、本人も死去した・・・享年33・・こ<と>により頼朝と政子の直系子孫は完全に断絶した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%BE%A1%E6%89%80 
のは、北条宗家(政子・義時姉弟)の意思、で、決まりでしょう。
 もちろん、その目的は、将軍の傀儡化によるところの、北条宗家の鎌倉幕府簒奪、つまりは日本の国の権力の簒奪、です。
 恐らくマザコンでもあった実朝は、(当然のことながら、政子が実は単なる毒母だったとは知る由もなく、従って、政子が義時と共に立てたところの公暁による自分の暗殺計画を除き、)全て承知の上、政子の操り人形をあえて演じ続けたのではないでしょうか。
 彼の渡宋計画(注56)は、そんな彼の、ほぼ唯一の政子への反抗であって、このような彼にとって余りにも空しい現実からの逃避計画であった、と、私は想像しています。(太田)

 (注56)「1216年・・・6月8日、東大寺大仏の再建を行った宋人の僧・陳和卿が鎌倉に参着し「当将軍は権化の再誕なり。恩顔を拝せんが為に参上を企てる」と述べる。15日、御所で対面すると陳和卿は実朝を三度拝み泣いた。実朝が不審を感じると陳和卿は「貴客は昔宋朝医王山の長老たり。時に我その門弟に列す。」と述べる。実朝はかつて夢に現れた高僧が同じ事を述べ、その夢を他言していなかった事から、陳和卿の言を信じた。・・・
 11月24日、前世の居所と信じる宋の医王山を拝す為に渡宋を思い立ち、陳和卿に唐船の建造を命じる。義時と広元は頻りにそれを諌めたが、実朝は許容しなかった。・・・1217年・・・4月17日、完成した唐船を由比ヶ浜から海に向って曳かせるが、船は浮かばずそのまま砂浜に朽ち損じた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E5%AE%9F%E6%9C%9D
 
(続く)