太田述正コラム#11632(2020.11.2)
<坂井孝一『承久の乱』を読む(その23)>(2021.1.25公開)

 「<1218年>2月4日、政子と時房は上洛の途につき、在京中、卿二位<(きょうのにい)>兼子<(注56)>と交渉を進めた。

 (注56)藤原兼子(けんし=卿二位=卿局。1155~1229年)。「刑部卿・藤原範兼の娘<で、>・・・後鳥羽天皇の乳母である藤原範子は姉。範子と前夫の娘・源在子は後鳥羽天皇の妃となり土御門天皇を産む。叔父の藤原範季・・・は後白河法皇の院近臣で、後鳥羽天皇の養育にあたった。範季の娘・藤原重子(修明門院)は後鳥羽天皇の妃となり順徳天皇を産んでいる。・・・
 姉・範子の夫である久我通親は後鳥羽天皇の外戚として権勢を振るった<が、>・・・1202年・・・、通親が死去し、後鳥羽上皇の独裁が強まると共に兼子・範光は側近としていっそう重用され、権勢を誇った。・・・
 1218年・・・正月、鎌倉幕府の将軍・源実朝の後継問題を相談するため、熊野詣と称して上洛した北条政子と対面する。兼子の推挙により、政子は出家後の女性としては異例の従三位に叙せられた。兼子は養育していた頼仁親王を次期将軍に押し、政子も実朝の妻坊門信子の甥である親王を実朝の後継者とする案に賛成し、二人の間で約束が交わされた。この年の11月、兼子の後押しを受ける政子は従二位に昇った。
 ・・・1219年・・・、実朝が暗殺され、幕府と後鳥羽上皇の対立が深まると、親王の鎌倉下向を拒否する上皇は、兼子を遠ざけるようになる。最終的には西園寺公経の奔走により、摂関家の子息・藤原頼経が次期将軍として鎌倉へ下向した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%85%BC%E5%AD%90

 そして、六条宮雅成親王、冷泉宮頼仁親王のどちらかを、実朝の後継将軍として鎌倉に下してもらう約束を取りつけた。

⇒卿二位のウィキペディア(上掲)にも、五味文彦を引用したコトバンク
https://kotobank.jp/word/%E5%8D%BF%E4%BA%8C%E4%BD%8D-1132324
にも、六条宮雅成親王の話は出てこないのですが・・。(太田)

 交渉は成功したのである。・・・

⇒私はそうは考えません。
 当時の摂家(摂関家)は、近衛家と九条家に分裂していて、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%82%E5%AE%B6
私は、聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想は、(九条兼実が後白河、ひいては後鳥羽の信任を得ていなかったと見ている(コラム#省略)ことから、)近衛家の嫡子だけに相伝された可能性が大であると考えているところ、仮に九条家の嫡子においても相伝されたとしても、卿二位の近親者達も、彼女の二人の夫・・権中納言・藤原宗頼と太政大臣大炊御門頼実・・のどちらも、摂家ではない
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%85%BC%E5%AD%90 前掲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%97%E9%A0%BC
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%A0%BC%E5%AE%9F
以上、彼女が、身内から上記コンセンサス/構想を漏れ聞く機会があったはずがなく、また、後鳥羽が、女性の彼女にこのコンセンサス/構想そのものを明かすことも考えにくい(コラム#省略)からであり、それに加えて、そもそも、尼二位と卿二位の「合意」内容が、このコンセンサス/構想に真っ向から違背するからです。
 ですから、卿二位が持ち帰ってこの「合意」内容を後鳥羽に伝えた時に、後鳥羽は、彼女に理由を説明しないまま一笑に付した、と、私は想像しているのです。(太田)
 
 交渉は「卿二位」兼子・「尼二位」政子という女性同士の非公式な形が取られたが、兼子は後鳥羽の、政子は実朝の意を体している。
 交渉の成功は、実朝の幕府からの提案を後鳥羽が快諾したことを意味する。・・・

⇒そんなことはありえない、と申し上げているわけです。(太田)

 我が子を将軍に据え、実朝に後見させることによって幕府をコントロール下に置き、・・・日本全土に君臨する帝王となる道が開けたのである。」(94、96~97)

⇒しつこいようですが、そんなことを後鳥羽が望むはずがないのです。
 そんなものを望んだとすれば、後鳥羽は、(少なくとも)桓武天皇の治世及びそれ以降の天皇家/藤原氏にとって最重要である歴史を全否定する反逆者だということになってしまうことに思いをいたしてください。(太田)

(続く)