太田述正コラム#11638(2020.11.5)
<坂井孝一『承久の乱』を読む(その26)>(2021.1.28公開)

 「1219<年>1月27日の実朝の横死は衝撃であった。・・・
 公暁が将軍になろうとして凶行に及んだように、源氏の血を引く者たちが将軍の地位を狙って反旗を翻し、幕府内が混乱に陥る危険性があった。
 その懸念通り、2月11日、実朝の叔父阿野全成の子時元<(注65)>が、軍勢を率いて駿河国阿野郡の山中に城郭を構え、宣旨を賜って東国を支配しようと企てた。

 (注65)母が北条氏であるため、四男であるが嫡男とされた。源頼朝が伯父であ・・・る。父の全成(源義経の同母兄)は・・・1203年・・・、甥で鎌倉幕府第2代将軍・源頼家と対立して殺害された。時元はこの時、外祖父である北条時政や伯母の政子の尽力もあって連座を免れ、父の遺領である駿河国東部の阿野荘に隠棲した。
 ・・・従兄弟に当たる第3代将軍・源実朝が殺害されると、・・・執権・北条義時の命を受けた金窪行親の手勢に討ち取られた。・・・
 鎌倉幕府側の『吾妻鏡』は「謀反」と表現するが、鎌倉時代史研究者の永井晋は、討手が向けられたことを知って決起した可能性を指摘している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%87%8E%E6%99%82%E5%85%83

 しかし、15日に急報が鎌倉に届くと、亡き将軍の生母として政子が命令を下し、義時が御家人たちを駿河に差し向け、22日には時元を自害させるという迅速な対応を取った。
 さらに、同様の謀反を未然に防ぐため、時元の兄弟で駿河の実相寺の僧侶となっていた道暁(どうぎょう)を3月27日に死に追い込み、翌・・・1220<年>4月15日には、三浦義村の弟胤義が養君としていた頼家の遺児禅暁<(注66)>を、公暁に加担した嫌疑により京都で誅殺した。・・・

 (注66)?~1220年。「1204年・・・に父頼家が暗殺された後、出家して仁和寺に入室する。母は三浦胤義と再婚した。
 ・・・1219年・・・正月、異母兄の公暁が叔父の源実朝を暗殺した事で、公暁に荷担したとの嫌疑を受ける。同年2月26日、次期将軍東下を要請するために鎌倉の使者・二階堂行光が入洛し、閏2月5日に禅暁を伴って京を出立した・・・。1年2ヶ月後の・・・1220年・・・4月14日、京の東山あたりで誅殺された。・・・
 1年2ヶ月の空白期間にどのような事実があったか不明だが、母の夫である三浦胤義が禅暁の助命に動いていたと推測する説もある。事件後、胤義は、承久の乱で京方となって幕府軍と戦っており、結果的に兄の三浦義村と敵対することになった。そのため禅暁の処遇が三浦一族分裂の原因となったと考える研究者もいる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%85%E6%9A%81

⇒政子/義時が、親王を将軍に据えて傀儡化し、北条氏が日本の権力を掌握するため、頼朝の男系子孫と頼朝の弟達及びその男系子孫を根絶やしにすべく、実朝をまず公暁に殺害させ、次いで、公暁と上出の面々の殺害を次々に実行した、という単純明快な話でしょう。(太田)

 政子は<1219年2月>13日、雅成親王・頼仁親王どちらかの鎌倉下向を申請する使者を上洛させた。
 政所別当の一人、二階堂行光<(注67)>が使者となり、宿老の御家人たちが連署した奏状を添えて、これが幕府の総意であることを示す念の入れようであった。

 (注67)1164~1219年。二階堂氏は藤原南家乙麻呂流。御家人・鎌倉幕府政所執事。「行光の後の政所執事は行光の甥の伊賀光宗となったが、光宗が・・・1224年・・・の伊賀氏の変で流罪となったあと、行光の子・二階堂行盛が就任し、以降この家系がほぼ政所執事を世襲する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E9%9A%8E%E5%A0%82%E8%A1%8C%E5%85%89

⇒それが幕府の総意ならぬ、政子/義時の意向であった、ということは、後鳥羽はもちろんお見透しだったことでしょう。(太田)

 さらに、翌朝には伊賀光季(いがみつすえ)を、29日には大江親広を京都警固のため上洛させた。
 実朝亡き後の幕府の必死さが伝わってこよう。・・・
 閏2月4日に後鳥羽が下した結論は、親王二人のうち一人は必ず下向させよう、ただし、今すぐにというわけにはいかない、というものであった。
 12日、行光の使者の報告を受けた政子は、14日に再び使者を上洛させ、すぐにでも親王を下向させてほしいと、機をみて後鳥羽に奏聞するよう行光に指示した。・・・
 『愚管抄』によれば、「・・・どうして将来に、この日本国を二つに分けることになるような措置をしておこうか、何事であるか、・・・決してそんなことをするつもりはない・・・」と後鳥羽は語ったという。・・・
 信頼する実朝を守ることができなかった幕府への怒り、実朝亡き後の幕府への不信感が読みとれる。・・・」(103~105)

(続く)