太田述正コラム#11654(2020.11.13)
<坂井孝一『承久の乱』を読む(その34)>(2021.2.5公開)

 「では、方針転換の時期はいつ頃だったのか、注目したいのは、・・・後鳥羽が<その年、1220年の>10月上旬、鳥羽の城南寺<(注86)>に滞在したこと<だ>。・・・

 (注86)「1160<年>以前の創建とされ・・・平安京の南方、白河上皇の鳥羽殿の近く、現在の京都市伏見区の上鳥羽・下鳥羽の間にあった寺。」
https://kotobank.jp/word/%E5%9F%8E%E5%8D%97%E5%AF%BA-532817

 ・・・1217<年>9月7日以降、3年余り後鳥羽の城南寺御幸はない。
 久方ぶりの御幸は何のためか。・・・
 <実は、>翌・・・1221<年>1月27日、後鳥羽は城南寺で笠懸<(注87)>を行ったという。

 (注87)「流鏑馬(やぶさめ)と同じように騎乗して全速力で駆けながら弓を射るが,流鏑馬とは異なり的の位置がはるか遠いところ(約30m)にセットしてある。矢は鏃(やじり)の代わりに鏑(かぶら)を大きくした蟇目(ひきめ)が用いられた。笠懸にはさまざまな種類がある。・・・
 名前の由来は,射手の装束のひとつである笠を木の枝に懸けて的にしたことによる。そもそもの始まりは,平安後期に貴族が武士に,特設の馬場ではなくて河原で即興的に騎射を命じたことによるという。その伝統によるのか,源頼朝はしばしば扇や沓(くつ)など身につける物を竹に挟んで的とし,これを射させている。これを〈挟み物〉という。・・・《平家物語》のなかに登場する那須与一の扇の的当ても笠懸の変形といってよい。」
https://kotobank.jp/word/%E7%AC%A0%E6%87%B8-44071

 笠懸は、・・・<同年>4月28日、城南寺で御仏事を行う予定である<ので、>警固のために甲冑を着て参上せよと、武士たちを招集した<、或いは、>・・・鳥羽の城南寺で流鏑馬揃えを行うと広く告知して、近国の武士たちを召し集めた・・・とされる<こと>・・・を想起させるに十分である。
 とすれば、その先をみすえた布石、城南寺御幸を繰り返し、笠懸を行うことによって、城南寺での行事を名目にした兵の召集をカムフラージュする意図があったのではないか。
 さらにまた、・・・1220<年>8月1日付「順徳天皇宣旨」には「城南寺御幸以前に申し上げしむべきの由」という文言がみえる。
 宣旨が出されたのは8月1日、この時点ですでに後鳥羽は<前出の10月上旬の>城南寺御幸を計画していたことになる。
 とすれば、7月頃には城南寺の行事を名目に兵を召集する計画を思いついていたと考えられよう。
 承久元年<(1219年)>8・9月頃引かれた導火線に、約1年後の承久2年<(1220年)>7月、ついに火が点じられたのである。・・・

⇒繰り返しますが、坂井とは違って、私は、後鳥羽ならぬ、天皇家、によって「導火線」が「引かれた」のは、少なくとも、源頼家暗殺の1204年まで(、そして、考えようによっては、1185年の後白河による頼朝追討宣旨の時期まで)遡る、と見ているわけです。(太田)

 そうした中にあって、幕府は・・・1220<年>4月15日・・・頼家の遺児禅暁<を>誅殺<し>た・・・。
 かくして公暁・阿野時元・道暁・頼茂・禅暁ら将軍候補の粛清が完了し、同年12月1日、三寅の着袴の儀が盛大に行われた。・・・
 朝廷でも同年11月5日、懐成親王の着袴の儀があり、翌年の践祚に向けて準備が整えられた。
 三寅と懐成はともに・・・1218<年>生まれの3歳、形式的に幼いトップを擁する体制が、期せずして朝幕で同時に作られたことになる。・・・
 幕府は・・・1220<年>における後鳥羽の方針転換、すなわち大内裏再建から北条義時追討へと優先順位を変更したことに気づくことなく、警戒も対策もしていなかった・・・。
 承久の乱の勃発は、幕府からすれば想定外の、しかも驚天動地の大事件だったわけである。・・・」(138~141)

⇒これが事実だったとして、それは、北条氏、この場合は、政子/義時が、「将軍候補の粛清<の>完了」が、天皇家による武家総棟梁の指名権を事実上制約してしまうという、天皇家に対する大逆行為、であって、天皇家の逆鱗に触れる、ということを知らなかったためであり、それは帰するところ、彼女らが、(聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想、については当然ですが、)頼朝と頼家は知っていたはずであるところの、天皇家によって、清和源氏の正副二嫡流の中から、正>副、の優先順位の下、武家総棟梁が指名される、ということを知らなかったが故だからでしょう。
 (頼家が重病になり、家督を長男の6歳の一幡に譲ろうとした時までに、この指名の件を一幡に伝達した可能性はあるけれど、北条時政/政子がその一幡を殺害し、次いで頼家も殺害した時点で、鎌倉幕府の幕閣内の御家人の重鎮達・・幕府の幕閣外の御家人の重鎮の一人たる足利義氏(後出)を除く・・ではこの件を知っている者がいなくなってしまっていたのだと思います。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%B9%A1 ←事実関係
 ちなみに、1220年に後鳥羽に殺害されるまでは、摂津源氏の嫡流である源頼茂とその嫡男の頼氏
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E8%8C%82
はこの件は知っていたと思いますし、私の想像では、その後、後鳥羽から、多田源氏の嫡流である多田基綱に伝達したと思われるところ、基綱の嫡男である重綱が、父親の基綱が戦死するより前の時点で乳児ではなかったとすれば、基綱からこの件を伝達され、その三代後まで存続した子孫
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E7%94%B0%E5%9F%BA%E7%B6%B1
中男系の者には次々と伝達されていた可能性がある、とも思います。)(太田)

(続く)