太田述正コラム#11656(2020.11.14)
<坂井孝一『承久の乱』を読む(その35)>(2021.2.6公開)

 「1221<年>1月17日には・・・順徳<(注88)>が後鳥羽のもとを訪れたのであるが、これは天皇が父院や母女院に年始の礼を行う朝覲行幸<(注89)>ではなかったという。

 (注88)1197~1242年。「後鳥羽天皇の第三皇子。母は、藤原範季の娘・重子(修明門院)。・・・
 1200年・・・4月に土御門天皇の皇太弟となる。穏和な土御門天皇とは対照的に激しい気性の持ち主だと言われていて、後鳥羽上皇から大きな期待を寄せられていたためである。摂政である九条良経が自分の娘(立子)を土御門天皇に入内させようとすると、後鳥羽上皇はそれを中止して東宮(順徳天皇)の妃にするように命じ・・・、更に長年朝廷に大きな影響を与えてきた後白河法皇の皇女で歌人として名高かった式子内親王を東宮の准母にしようとして彼女の急死によって失敗に終わると、その代わりとして上皇自身の准母であった殷富門院(式子の姉)を准母として・・・、上皇の後継者としての地位強化が図られている。さらに・・・1208年・・・8月、莫大な八条院領を相続人である異母姉の昇子内親王(春華門院)を准母とし、・・・1211年・・・11月の昇子内親王の死後には八条院領を相続した。
 ・・・1210年・・・11月後鳥羽上皇の強い意向により、土御門天皇の譲位を受けて践祚し、14歳で即位する。・・・
 父上皇の討幕計画に参画し、それに備えるため、・・・1221年・・・4月に子の懐成親王(仲恭天皇)に譲位して上皇の立場に退いた。父上皇以上に鎌倉幕府打倒に積極的<だった。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%86%E5%BE%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87
 (注89)ちょうきんぎょうこう。「覲は謁見の意で、天皇が親である太上(だいじょう)天皇・皇太后の居所を訪問し拝謁すること。朝覲行幸とはそのために行幸、すなわち外出すること。嵯峨天皇の809年・・・8月に始まったとされ、平安時代に盛んになる。鎌倉時代まで行われたが、以後は下火になった。年始の挨拶として正月の3、4日ごろに行われるのが朝廷の恒例の儀となったが、ほかに践祚、即位または元服のあとに行われる臨時の儀もあった。」
https://kotobank.jp/word/%E6%9C%9D%E8%A6%B2%E8%A1%8C%E5%B9%B8-1367713
 「正月の行事としては仁明天皇の834年・・・をはじめとする。」
https://kotobank.jp/word/%E6%9C%9D%E8%A6%B2-568290

 譲位や義時追討についての相談であった可能性が高い。
 次いで後鳥羽は、1月27日、鳥羽の城南寺で笠懸を行わせた。
 そして、2月4日、29回目の熊野詣に出た。
 熊野三山に譲位の無事と義時追討の成功を祈願したのではなかったか。・・・
 4月20日、順徳から懐成(かねなり)への譲位が行われた。
 仲恭天皇<(注90)>、4歳の践祚である。

 (注90)1218~1234年。天皇:1221~1221年。「順徳天皇の第四皇子。母は、九條良経の娘、中宮・立子(東一条院)。・・・
 幕府の手によって仲恭天皇は皇位を廃され<たが、>・・・幼児で、将軍(摂家将軍)九條頼経の従兄弟であることから、その廃位は予想外であったらしく、後鳥羽上皇の挙兵を非難していた慈円でさえ、幕府に仲恭天皇の復位を願う願文を納めている。まもなく母親の実家である摂政・九條道家(天皇の叔父、頼経の父)の邸宅に引き渡され、・・・1234年・・・に17歳で崩御。歴代の天皇の中で、在位期間が最も短い天皇である。・・・
 1870年・・・弘文天皇(大友皇子)、淳仁天皇(淡路廃帝)とともに仲恭天皇の諡号が布告された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%B2%E6%81%AD%E5%A4%A9%E7%9A%87

 同日、近衛家実<(注91)>が関白を辞し、左大臣九条道家<(注92)>が摂政となった。」(143~144)

 (注91)1179~1243年。「承久の乱では後鳥羽上皇らの挙兵に反対し、4月関白を解任されるも、乱の鎮圧後は仲恭天皇廃位に伴って九条道家が失脚したため、7月再び摂政に補任される。同年12月20日には太政大臣に就任し、後堀河天皇の元服・加冠の役を務めた。・・・1223年・・・後高倉院崩御後は名実共に朝廷の主導者となる。鎌倉幕府に協調して後鳥羽院政を否定すべく復古的・消極的な政治を敷<いた。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%AE%B6%E5%AE%9F

⇒坂井はここで全く註釈を付けていませんが、後鳥羽は、(私見では聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想の伝承家の嫡男である)近衛家実を摂政にしようとしたのに、彼が挙兵に反対したことに驚愕し、直ちに関白を解任後、不本意ながら九条道家を、恐らく挙兵のことは告げないまま、摂政に任じたのでしょう。
 九条家は権力に靡く「家風」であると私は見ている(コラム#省略)ところ、道家は、その息子の頼経を将軍として送り込んでいる立場からして、(後に北条得宗家嫌いであることが明らかになった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E9%81%93%E5%AE%B6 前掲
とはいえ、)そんな挙兵に賛同などできるはずがなかったからです。
 ところで、どうして、近衛家実は挙兵に反対したのでしょうか?
 私は、彼が、挙兵の趣旨には賛同したけれど、絶対に成功しないと考えたからだ、と想像しています。
 そのように、家実は、極めて密接な関係にあったところの、惟宗忠久(島津忠久)(注92)から、折に触れて得ていた、幕府や全国の武家についての情報に基づいて判断したのではないか、と。(太田)

 (注92)?~1227年。「『島津国史』や『島津氏正統系図』において、「摂津大阪の住吉大社境内で忠久を生んだ丹後局は源頼朝の側室で、忠久は頼朝の落胤」とされ、出自は頼朝の側室で比企能員の妹・丹後局(丹後内侍)の子とされている。・・・
 忠久は鎌倉時代以前は京都の公家を警護する武士であり、親戚は大隅・日向国の国司を務めていた。
 出身である惟宗家は近衛家の家司を代々務めた家で、忠久は近衛家に仕える一方で、源頼朝の御家人であった。東国武士の比企氏や畠山氏に関係があり、儀礼に通じ、頼朝の信任を得ていたという。
 惟宗家が元々仕えていた近衛家は、平季基から島津荘の寄進を受けた藤原頼通の子孫である関白・藤原忠通の長男・基実を祖とする家であり、鎌倉時代から島津荘の荘園領主となっていた。
 また、基実の子である基通については、婚約者であった源義高を殺害された直後の源頼朝の長女大姫を基通に嫁がせる構想があったことが知られており、最終的には実現しなかったものの、この構想に関して忠久の関与の可能性が指摘されている。
 こうした源頼朝・近衛家を巡る関係から、島津忠久は地頭職・守護職を得たのではないかと考えられる。
 以後、島津家は島津荘を巡って近衛家と長い関係を持つにいたった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E5%BF%A0%E4%B9%85

(続く)