太田述正コラム#11662(2020.11.17)
<坂井孝一『承久の乱』を読む(その38)>(2021.2.9公開)

 「ただ、「慈光寺本」は二人の重鎮、近衛基道<(「家実」の校正ミスだろう。(太田))>と卿二位の夫大炊御門(おおいみかど)(藤原)頼実<(注100)が後鳥羽に批判的であったとする。

 (注100)1155~1225年。「藤原北家大炊御門家、左大臣・藤原経宗の長男。官位は従一位・太政大臣。」藤原頼実には4人の妻がおり、うち一人は素性不詳、もう一人は離縁しており、残る二人が卿二位と(藤原定隆の娘の)藤原隆子だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%A0%BC%E5%AE%9F
 父の大炊御門(藤原)経宗(1119~1189年)は、「雅仁親王(後白河天皇)<と>、経宗と従兄弟の関係にあった。・・・二条天皇、平氏、後白河法皇と権力者の下を渡り歩いた印象が強いが、・・・平家滅亡後の・・・1185年・・・10月13日、源義経が頼朝追討の宣旨を下すように要請する。躊躇する後白河院に、経宗は「当時在京の武士、只義経一人なり。彼の申状に乖かれ若し大事出来の時、誰人敵対すべけんや。然らば申請に任せて沙汰あるべきなり」と進言し、頼朝の追討宣旨の上卿を勤めた<にもかかわらず、その後も含め、>・・・動乱の中で24年間も左大臣の地位にあり続けた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%B5%8C%E5%AE%97
 義理の父の藤原定隆(1134~1170年)は、「藤原北家良門流<で、>・・・後白河上皇の院別当を務め<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%9A%E9%9A%86

⇒摂関家主流の近衛家実に関しては既に私見を記したところですが、藤原頼実が後鳥羽の挙兵に批判的であったことには、以下のような理由があったのではないか、と、私は見ています。
 一つには、(後白河の意を受けてだとは思うのですが、)頼朝追討の宣旨を下すよう「進言」した(させられた?)ことで、すんでのところで、失脚してもおかしくない、という、父親の経宗の辛い経験を、頼実は聞かされており、北条氏追討について、摂関家主流の近衛家実の意見を聞き、勝てない、と言われたのではないか、そして、二つには、(その前の右大臣時代に、既に事実上公卿のトップだった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%B5%8C%E5%AE%97 前掲
わけだが、)院政下で、お飾りに甘んじていた摂関、そして名誉職的な太政大臣、を除けば、公卿のトップだったところの、左大臣を24年も務め、(従弟でもある)後白河の心中にあることはお見透し状態になったであろう、(頼実の父親の)宗経が、聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想の概要を知るに至り、その内容を嫡子の頼実にも密かに伝えていたのではないか、であり、だからこそ、頼実は、近衛家実の意見を的確に理解できたのではないか、と。
 (頼実の義理の父親の藤原定隆は、後白河の院別当だったのですから、聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想を後白河から教示されていた可能性が大ですが、定隆が亡くなった時には、頼実はまだ15歳くらいですから、その時までに定隆の娘の隆子と結婚していたかは分かりませんが、いずれにせよ、定隆からこのコンセンサス/構想の概要なりと示唆される機会があったとは思えません。)(太田) 

 また、三寅の関東下向に尽力した西園寺公経<(注101)>とその子実氏<(注102)>は、幕府に内通しているとみなされ、5月14日、弓場殿(ゆばどの)に幽閉された。」(149)

 (注101)きんつね(1171~1244年)は、「処世は卓越していたが、幕府に追従して保身と我欲の充足に汲々とした奸物と評されることが多く 、その死に臨んで平経高も「世の奸臣」と日記に記している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%85%AC%E7%B5%8C
 つねたか(1180~1255年)。「桓武平氏高棟流<の>・・・公卿<で、>・・・官位は正二位・民部卿<。>・・・順徳天皇に取り立てられた経緯から鎌倉幕府に対しては公然と反感を示すことがあ<った。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%B5%8C%E9%AB%98
 (注102)1194~1269年。「官位は従一位・太政大臣。「鎌倉幕府と親しい公家として知られ、3代将軍・源実朝が暗殺された鶴岡八幡宮での右大臣拝賀の儀式にも参列している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%AE%9F%E6%B0%8F

⇒西園寺公経が伊賀光季に後鳥羽の挙兵計画を密告したのは言語道断です。
 鎌倉幕府瓦解後、南朝であれ、北朝であれ、天皇家が(いくら子孫には罪はないとはいえ、)西園寺家を取り潰さなかったことが私には解せません。
 以下、蛇足です。
 明治以降では、元老の西園寺公望とその孫で何かと世間を騒がせた西園寺公一が有名ですが、公望は徳大寺家から西園寺家に養子に入ったものの、その後も事実上実父に育てられた人間で、妻は芸者ですし、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%85%AC%E6%9C%9B
公一は、母が公望の子で、父親は、西園寺家に養子で入ったところの、旧長州藩主毛利元徳の子であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%85%AC%E4%B8%80
二人とも、実のところ、西園寺家とは血縁的には無関係の人物だった、と言ってもいいでしょう。(太田)

(続く)