太田述正コラム#11668(2020.11.20)
<坂井孝一『承久の乱』を読む(その41)>(2021.2.12公開)

 足利家の租の義康から義氏に至る三代は、それぞれ、河内源氏の棟梁義朝、河内源氏の棟梁頼朝、最高権力者の北条得宗家、と、配偶者の選択を通じて迎合的に結びつく生き様を、あたかも判を押したように送っており、公卿家たる九条家、西園寺家、を彷彿とさせる、その強い者に媚び諂う姿勢はいただけません。
 逆に、島津忠久は、このような足利家の「家風」とこの「家風」に染まった足利義氏の心中を見抜いた上で、義氏が絶対に北条宗家の側に立つと瀬踏みし、この義氏がそうである以上、河内源氏はもちろんのこと、清和源氏の大部分も北条宗家側に立つ、的な考えを、近衛家実に折に触れて伝えていた、と、私は見ている次第です。
 付言しておきます。
 「幕府側は尼将軍北条政子・執権義時を中心に団結し、東海道・東山道・北陸道の三手から19万の大軍を攻め上がらせ<るが、足利>義氏は北条泰時・時房・三浦義村・千葉胤顕と共に東海道大将軍となり10万騎を率いて京都に進撃し・・・た<ところ、>この承久の乱での東海道軍の<際の>大将<軍の一人として>の<足利家の棟梁の>配置は先例となり、・・・1333年<の>・・・後醍醐天皇倒幕挙兵のとき<に>は足利尊氏<・・当時は高氏・・が>、名越流北条高家とともに大将軍となって上洛軍を率い<させられた>」
https://www.chunengenryo.com/ashikagayosiuji1/ 前掲
ものの、「このとき、高氏は妻登子・嫡男千寿王(のちの義詮)を同行しようとしたが、幕府は人質としてふたりを鎌倉に残留させている<ところ、>名越高家が緒戦で戦死したことを踏まえ、後醍醐天皇の誘いを受けていた高氏は天皇方につくことを決意<した>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E5%B0%8A%E6%B0%8F
のも、(私見では、期待に反して、自分が征夷大将軍に任じられない、すなわち、幕府の開設を認められないことに反発して、)1335年に後醍醐天皇に叛旗を翻したのも、やはり尊氏が、それぞれの折に「的確な情勢判断」を行った結果なのでしょうが、後味の悪いこと夥しいものがあります。(太田)

 「さらに後鳥羽は、・・・5月15日付の「北条義時追討の官宣旨」(『鎌倉遺文』<(注111)>2746号)も下した。

 (注111)「竹内理三・・・(1907~1997 元東京大学史料編纂所所長、東京大学名誉教授、早稲田大学名誉博士)が、・・・1971<年>から24年間の歳月をかけて刊行<し>た正編42巻、補遺4巻の鎌倉時代の古文書約3万6,000通を網羅した史料集」
https://japanknowledge.com/contents/kamakuraibun/index.html

 官宣旨とは、天皇の意向を受けた太政官の上卿(じょうけい)(政務を執行する公卿)の宣(せん)(命令)によって弁官<(注112)>が発給する命令書である。・・・

 (注112)「律令制の官職組織の一つ。和訓は〈おおともいのつかさ〉。左弁官と右弁官とがあり,ともに太政官(だいじようかん)に所属する。これを構成するおもな官職は左・右とも,弁(大弁,中弁,少弁の三等,定員各1)と史(大史,少史の二等,定員各2)で,左右大弁の相当位は従四位上で,八省の卿につぐ高官である。その職掌には,太政官外に関するものと,太政官内についてのものがある。特に重要なのは前者に関する職掌で,左弁官は中務,式部,治部,民部の4省を,右弁官は兵部,刑部,大蔵,宮内の4省を管轄下に置き,これらの省が太政官に上申する庶政を受理して,太政大臣,左・右大臣,大・中納言,参議で構成される議政官組織に申達し,また議政官組織の命令を受けて行政命令書を作成し,八省のほか内外の諸官庁に対して発給する。・・・
 平安時代に蔵人所(くろうどどころ)が設けられると頭(とう)(長官)のうち1人は弁官があてられ(頭弁(とうのべん))、また文書を起草する史(し/ふみひと)の上首(じょうしゅ)(官務)は実務官僚として重視され、小槻(おづき)氏(壬生(みぶ)氏)が世襲した。」
https://kotobank.jp/word/%E5%BC%81%E5%AE%98-131092

 官宣旨の論理も院宣とほぼ同じである。
 異なるのは三点、第一に「義時朝臣」追討命令の宛先が「五畿内・諸国<、及び、>東海・東山・北陸・山陰・山陽・東海・大宰府」の「諸国荘園の守護人・地頭等」になっている点、第二は追討後に「言上を経べきの旨有らば、おのおの院庁(いんのちょう)に参り、宜しく上奏を経べし(後鳥羽に言上したいことがあるならば、院庁に参上して上奏することを許可しよう)」とした点、第三に「国宰(こくさい)ならびに領家等、事を綸綍<(注113)>(りんふつ)に寄せ、更に濫行(らんぎょう)を致すなかれ(国司や荘園領主は勅命を口実に乱暴行為をしてはならない)」とした点である。

 (注113)「“天子のみことのり” のことをこのように言います。出典は『禮記(らいき)』の緇衣(しい)篇
>王言如絲。其出如綸。王言如綸。其出如綍。
「絲」は細い“いと”、「綸」は太い“いと”、「綍」は“つな”
帝王の発言がいったん世に出ると、もとの発言の何倍にも拡大されるといった意味でしょう。」
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12129379942

 第一点から、この官宣旨が東国の御家人だけでなく、畿内近国・西国の御家人を含む広域的な武士の動員を意図したものであることがわかる。
 そもそも東国は幕府の権力が浸透した地域である。
 義時追討という官宣旨が有効に機能するかどうか不明である。
 しかし、畿内近国・西国の御家人を対象に含めれば効果が期待できる。
 第二点の院庁への参上および上奏の許可も、この地域の武士に対してならば恩賞としての実効性がある。
 第三の国司・領家の濫行禁止も、畿内近国を現実的な主たる対象と捉えれば、国司・領家による造内裏役への抵抗という苦い記憶がよぎっていた可能性もある。
 自分が国司・領家の上に君臨する王であることを、濫行禁止を打ち出すことであらためて徹底させようとしたとも考えられよう。
 いずれにせよ、この官宣旨は東国の有力御家人に下した院宣を補完しし、畿内近国・西国を中心に広域的な御家人の動員を図ったものといえる。」(154~155)

⇒坂井のこの総括ぶりには、いささか違和感があります。
 承久の乱当時の日本の状況についての私の認識は、院から委任された幕府の権断権は、守護、地頭を通じて日本全国に及んでいたけれど、幕府の御家人、すなわち、将軍と封建契約下にあった武家棟梁達の大部分の本拠たる領地は東国にあった、というだけのことであり、宣旨は、院が面識のあった有力御家人8人に北条宗家への敵対を命じたもの、官宣旨は、武力を有する日本全国の者達に北条宗家追討を命じたものであり、論理的には、公文書である後者だけで足りるところ、そのほかに特別に私文書的な公文書である前者も発出した、ということ、以上でも以下でもないのではないでしょうか。(太田)

(続く)