太田述正コラム#11678(2020.11.25)
<坂井孝一『承久の乱』を読む(その46)>(2021.2.17公開)

 「これに対し・・・<大江>広元・<と>・・・三善康信<(注119)の>・・・二人の宿老の意見が一致をみたことで、北条義時は嫡子の泰時に出撃を命じた。・・・

 (注119)「子孫の町野・大田両氏は鎌倉・室町幕府の問注所執事を世襲。なお高野山領備後(びんご)国大田荘の地頭職(じとうしき)を給付されたところから、子孫がこの地で領主制を展開した。」
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 「三善氏<は、>・・・百済系<であり、> 《新撰姓氏録》に〈錦部連は三善宿禰と同祖,百済王速古大王の後なり〉とみえる。」
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⇒三善氏が、室町幕府でも重用されたのは、康信が、足利氏と河内源氏同士の源頼朝の恩人であったからでしょうが、承久の乱の時に、いわば源頼朝家を裏切ったというのに、それを室町幕府から咎められなかったのは、その折、足利尊氏の直系の先祖である足利義氏も同じ裏切りをしていたからでしょうね。
 それにしても、大江広元と違って、積極的に武家化を図っていたように見えない三善康信、しかも、老衰で既に死にかけていた三善康信を引っ張り出してまでして、義時がわざわざ軍略を諮問したことが、私にはやや解せません。(太田)

 かくして・・・1221<年>5月22日、卯の刻(早朝6時頃)、小雨が降る中、北条泰時が京都に向けて進発した。
 従ったのは北条時氏(泰時の子)・同有時(ありとき)・実義(さねよし)(いずれも義時の子)、尾藤景綱、関実忠、南条時員(ときかず)ら、北条の一族や北条氏に仕える武士わずか18騎。
 決死の出撃であった。
 さらに、5月22日のうちに北条時房、足利義氏、三浦義村・泰村父子らが出撃した。
 北条朝時も「北陸道の大将軍」として鎌倉を発った。・・・

⇒同じ日に、北条朝時と北条時房、に加えて、足利義氏、三浦義村・泰村父子とそれぞれの郎党達も「出撃」したのですから、足利義氏以下が鎌倉から「出撃」したのか、それぞれの本拠地から「出撃」したのかは知らないけれど、「わずか18騎。決死の出撃であった。」はないでしょう。(太田)

 『吾妻鏡』5月25日条によれば、北条泰時が進発した5月22日早朝から25日早朝までに、しかるべき東国武士は悉く出撃し、・・・東海・東山・北陸三道に分かれて上洛する軍勢の総数は、実に19万騎。・・・
 3日間でこれだけの数の出撃があったということは、武士たちが流れに乗り遅れまい、我も我もと勇んだ結果であろう。
 こうなると、なぜ出撃することになったのかといった点は問題ではなくなる。・・・
 ここで緒戦における勝因・敗因分析を行ってみたい。・・・
 鎌倉に入るまで後鳥羽の使者押松と一緒だった、と三浦胤義の使者から聞いた三浦義村が、いち早く義時支持を表明した上、押松の探索と院宣・官宣旨の押収を進言したことが極めて大きいと考える。
 和田合戦の時も、三寅下向の方針を打ち出した時も、キーパーソンは三浦義村であった。
 和田合戦では同族の和田義盛との約諾を破り、承久の乱でも弟胤義の勧誘に乗らなかったことから、義村は権謀の人と評価されがちである。・・・
 しかし、別の角度からみれば、義村は一貫して北条義時の側に立っており、ブレはない。
 その義村の進言を容れて院宣・官宣旨を押収したことにより、幕府首脳部は情報を隠匿し、しかも都合のいいように情報操作をすることができた。」(165~169)

⇒院宣・官宣旨を、最初に政子のもとに参集した有力御家人達にまで開示しなかったわけがない、というのが私見であることを既に申し上げました。
 それにしても、三浦義村は何と愚かな人物であったことでしょうか。
 それまで、北条宗家が、主君家たる源頼朝家の人々を根絶やしにしつつ、北条宗家内外の競争相手たる武家を次々に殲滅してきたことに積極的に手を貸すことで、自分の家だけは安泰であり続けるなどという甘っちょろい妄想を抱いていたのですからね。
 三浦氏は、かりそめにも、桓武平氏良文流なのですから、『史記』くらいは読んでいたとしても驚きませんし、自分が読んでいなくても、「狡兎死して走狗烹らる」ということわざ
http://kotowaza-allguide.com/ko/koutoshishitesouku.html
くらいは知っていてもおかしくないところ、まさにこのことわざ通り、三浦氏は、義村の嫡子の泰村(1184/1204~1247年)の時に、最終的に北条氏によって一族500余名が死に追い込まれてしまう(宝治(ほうじ)合戦)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9D%E6%B2%BB%E5%90%88%E6%88%A6
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E6%B3%B0%E6%9D%91
のですからね。
 それだけではありません。
 義村に対しては、(足利義家はともかくとして、)自身によってだけでも、北条宗家に尽くし過ぎて同宗家を一層増長させることとなり、同宗家以外の御家人達の同宗家に対する恨みを更に募らせ、ついには鎌倉幕府滅亡の際に、同宗家が、その郎党ともども、成員ほぼ全員が自裁せざるを得ない羽目に陥ったことの責任の相当部分を負うべき、罪作りな人物であった、とさえ言えそうです。(太田)
 
(続く)