太田述正コラム#11692(2020.12.2)
<坂井孝一『承久の乱』を読む(その53)>(2021.2.24公開)

 「鎌倉方は、わずか8年前、・・・1213<年>の和田合戦で激闘を経験済みであった。
 北条義時・泰時・時房も、三浦義村も、女性である北条政子や文士の御家人である大江広元、三善康信ですら、命の危険を体験したのである。
 こうした実戦経験があったからこそ、鎌倉方の前線の指揮官たちは戦況に応じた的確な指示を出すことができた。・・・
 京方にも大内惟信、五条有範<(注126)>、後藤基清、佐々木広綱のような歴戦の勇士はいたが、検非違使・武者所(内裏や院御所の警固を担当する機関)・西面などに祇候しており、和田合戦の激闘を経験したのは三浦胤義などごく一部であった。

 (注126)?~1221年。「世系は不明であるが平氏であると伝わる。・・・一条家の家人で在京御家人。・・・1205年・・・後藤基清、佐々木広綱らと共に平賀朝雅を追捕。後に検非違使となり五条判官と呼ばれた。・・・1213年・・・に従五位下に叙され、・・・1214年・・・には筑後守となった。承久の乱では後鳥羽上皇方に加わり梟首された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E6%9D%A1%E6%9C%89%E7%AF%84

 しかも、前線の指揮官は、藤原秀康・秀澄兄弟のような、後鳥羽が集めた実戦経験の乏しいイエスマンであった。
 そのため、もともと数の少ない軍勢を複数の要害に分散させた上、土地勘のある山田重忠<(注127)>のような在地武士の献策を却下するといった失敗を犯したのである。・・・」(208)

 (注127)?~1221年。「清和源氏満政流山田氏・・・治承・寿永の乱では父・重満が墨俣川の戦いで源行家の軍勢に加わり討死したが、重忠はその後の木曾義仲入京に際して上洛し、一族・・・と共に京中守護の任に就くなどした・・・。義仲の滅亡後、源頼朝が鎌倉幕府を創設すると尾張国山田荘(名古屋市北西部、瀬戸市、長久手市の一帯)の地頭に任じられ御家人に列する。しかし山田氏の一門は伝統的に朝廷との繋がりが深く、重忠は鎌倉期以降も京で後鳥羽上皇に近侍し・・・ている。
 ・・・1221年・・・5月、後鳥羽上皇が討幕の挙兵をすると重忠は・・・一族とともにこれに参じた。同年6月、京方は幕府軍を美濃と尾張の国境の尾張川で迎え撃つことになり、重忠は墨俣に陣を置いた。京方の大将の河内判官藤原秀澄(京方の首謀者・藤原秀康の弟)は少ない兵力を分散する愚策をとっており、重忠は兵力を集中して機制を制して尾張国府を襲い、幕府軍を打ち破って鎌倉まで押し寄せる積極策を進言するが、臆病な秀澄はこれを取り上げなかった。
 京方の美濃の防御線は幕府軍によってたちまち打ち破られ、早々に退却を始めた。重忠はこのまま退却しては武士の名折れと、300余騎で杭瀬川に陣をしき待ちかまえた。武蔵国児玉党3000余騎が押し寄せ重忠はさんざんに戦い、児玉党100余騎を討ち取る。重忠の奮戦があったものの京方は総崩れとなり、重忠も京へ退却した。
 京方は宇治川を頼りに京都の防衛を図り、重忠は比叡山の山法師と勢多に陣を置き、橋げたを落として楯を並べて幕府軍を迎え撃った。重忠と山法師は奮戦して熊谷直国(熊谷直実の孫)を討ち取るが、幕府軍の大軍には敵わず京方の防御陣は突破された。幕府軍が都へ乱入する中で、重忠は藤原秀康、三浦胤義らと最後の一戦をすべく御所へ駆けつけるが、御所の門は固く閉じられ、上皇は彼らを文字どおり門前払いした。重忠は「大臆病の主上に騙られて、無駄死ぞ!」と門を叩いて悲憤した。
 重忠は藤原秀康、三浦胤義ら京方武士の残党と東寺に立て籠もり、これに幕府軍の大軍が押し寄せた。重忠は敵15騎を討ち取る奮戦をしたが手勢のほとんどが討ち取られ、嵯峨般若寺山(京都市右京区)に落ちのび、ここで自害した。
 重忠の自害後、嫡子重継も幕府軍に捕らえられ殺害、孫の兼継は越後に流され後に出家、僧侶として余生を送った。山田氏は兼継の弟・重親とその子の泰親の系統が継承していった。・・・
 『沙石集』は重忠を「弓箭の道に優れ、心猛く、器量の勝った者である。心優しく、民の煩いを知り、優れた人物であった」と称賛している。また、信仰心の篤い人物であったと云われ領内に複数の寺院を建立したことでも知られている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E9%87%8D%E5%BF%A0

⇒和田合戦は、一貫して市街戦だったのであり、基本的に野外戦の連続であった承久の乱とは様相が全く異なり、前者での経験が即後者に活かせた、ということは必ずしもないでしょう。
 それに、そもそも、戦争の勝敗の帰趨にとって一番決定的なのは双方の相対的兵力量の懸隔であって、和田合戦も承久の乱も、兵力が圧倒的に少ない方が負けた当たり前の事例以外の何物でもありません。
 和田合戦の最大の戦訓は、和田合戦について詳しく紹介している、高田哲哉「和田合戦とは 経緯と戦闘詳細【和田義盛の乱】」
https://senjp.com/wada/
・・典拠を示していないという致命的問題を抱えているが・・を読めば、和田氏側の敗北理由が、北条氏側が将軍実朝を擁していたために、他氏を含めた最低限必要な兵力量を結集できなかった、ということであったことが分かります。
 後鳥羽もまさにそう考えて、今回は、和田合戦の時とは違って将軍が事実上空位であったわけであり、和田合戦の時と全く同じ理由によるところの、対北条氏戦である以上、所要の兵力量は確保できるであろうことから、勝機は十分過ぎるくらいある、と踏んだのではないか、と思います。
 しかも、前掲によれば、和田合戦直前、和田義盛は、「これは将軍家を恨み奉ってのことでなく、執権・北条義時の非道に対して怒っているので、御教書賜わりたるとも、北条氏を討つ気持に変りござらぬ。こちらで防戦の用意なくば、あの比企一族のごとく討ち滅ぼされることは必定。われら滅ぼされなば将軍家の御安泰も計り知れず私憤ばかりではなく君側の奸を討つことなれば、もはや止め立てなされようとも、止めようがござらぬ。老い先短かいそれがしが今北条を討たざれば、われらの息子共の時代には滅ぷこと目に見ゆるごとくでござる。将軍家に果を及ぼすことは致さぬにより、必ず決行致す。度々の忝なき御諚を戴き義盛嬉しく存ずる次第、義盛の真意くれぐれも御前態宜しく頼み入る。」と語ったとされており、和田氏族滅の教訓を、北条氏以外の幕府御家人達の大部分は肝に銘じているはずだ、だから、今回は、その大部分は北条氏側には与しないだろう、とも考えたのではないでしょうか。
 結局のところ、後鳥羽と鎌倉幕府の(北条氏以外の)御家人達の知的レベルが違い過ぎることを直視しなかったことが、後鳥羽の最大の過失だった、と言ってよさそうな気が私にはします。
 そして、つきつめれば、それは、後鳥羽と足利義氏の知的レベルに懸隔があり過ぎ、つまりは義氏の頭が悪過ぎ、た結果、義氏が足利幕府を100年以上前倒しで成立させる絶好の機会を自ら投げ捨ててしまったこと、に帰着する、とも。
 (但し、足利幕府の100年超前倒し成立は、義氏が最初から寝返った場合の話であり、途中から寝返った場合は微妙ですが、寝返らなかった場合でなおかつ後鳥羽側が勝利を収めた場合には、多田基綱によるところの、多田幕府が成立していたであろう、というのが私の見立てであるわけです。)(太田)   

(続く)