太田述正コラム#11694(2020.12.3)
<坂井孝一『承久の乱』を読む(その54)>(2021.2.25公開)

 「<乱後の>1224<年>6月、北条義時が急死<する。>・・・

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[北条義時の器]

 「『吾妻鏡』に<よれば、>、幕府軍が鎌倉を発った直後の6月8日、義時の邸に雷が落ち、下働きの男が一人死亡した。これを恐れた義時は大江広元に「朝廷を倒すための上洛でこのような怪異が起きた。幕府の運命もこれまでという前兆だろうか」と尋ね、広元は「君臣の運命は天地が定めるものであり、何も恐れる事はない。かつて勝利を収めた奥州合戦では落雷があった。幕府にとって落雷は吉兆である」と返答して狼狽する義時を宥めた。そして陰陽師を呼び占わせたところ、結果は最吉と出た、という話が描かれている。この話は、義時が神の末裔である皇族に弓矢を引くことに恐怖を感じていたこと、天皇を絶対的な権威とする当時の『常識』を、義時もまた持っていた証であると・・・細川茂男<(注128)によって>・・・指摘されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E7%BE%A9%E6%99%82#CITEREF%E7%B4%B0%E5%B7%9D

 (注128)1962年~。東洋大院修士(日本史)、立正大博士、東洋大学・國學院大學非常勤講師。日本史史料研究会主任研究員。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E9%87%8D%E7%94%B7

⇒義時の肝っ玉の小ささ、ひいては、器の小ささが分かろうというものだ。
 政子の存在もあったとはいえ、こんな男を守るために、足利義氏らは天皇家に弓引く戦いを行ったということだけをとれば、義氏らは頭が悪かっただけでなく、義時並みに器が小さかったということにすらなりかねない。
 恐らくは、当時の幕府の中枢は、権威を政子が、しかし、権力は義時ではなく、大江広元が掌握していた、ということではなかろうか。
 まさに、広元は、「頼朝の在世中、鎌倉家臣団は棟梁の最高正二位という高い官位に対し、実弟の範頼、舅の北条時政をふくめ最高でも従五位下止まりという極度に隔絶した身分関係にあったが、参入以前に既に従五位下であった広元のみは早くから正五位を一人許されており、名実とも一歩抜きん出たナンバーツーの地位が示されて<おり、>頼朝死後も、最高実権者である北条義時を上回る正四位を得ており、少なくとも名目的には将軍に次ぐ存在として遇されていたといえる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B1%9F%E5%BA%83%E5%85%83
わけだが、天皇家と戦った、政子/広元/義時、も、皮肉なことに、彼らの間では、天皇家が導入し、天皇家が彼らに与えた官位における序列を尊重していたらしい。(太田) 
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 急遽鎌倉に帰還した泰時は、<我が子の夫の>一条実雅<(前出)>を将軍に擁立し、我が子政村を執権に立てようとする義時未亡人伊賀氏の陰謀(伊賀氏事件<(前出)(注129)>)を、政子の強力な指導力によって乗り切ると、三代目の執権となった。

 (注129)伊賀氏の変。「1224年・・・6月から閏7月にかけて伊賀氏によって起こった鎌倉幕府の政変。・・・第2代執権・北条義時の死去に伴い、伊賀光宗とその妹で義時の後妻(継室)・伊賀の方が、伊賀の方の実子・政村の執権就任と、娘婿・一条実雅の将軍職就任を画策した。
 伊賀光宗は、鎌倉御家人の中でも実力があり政村の烏帽子親である三浦義村と結ぼうとするが、伊賀氏の不穏な動きを察した尼将軍・北条政子は義時の長男であった北条泰時を執権に就任させる。また、三浦義村に対し泰時への支持を確約させ、伊賀氏の政変を未然に防ぐことに成功した。
 これにより伊賀氏の陰謀は頓挫する。伊賀の方は伊豆北条へ、光宗は信濃へ、実雅は越前へ配流となった。
 しかし彼らに担ぎ上げられそうになった当の政村は厳罰を免れ、後に評定衆・引付頭人・連署など要職を経て第7代執権に就任し、終始得宗家に忠実な姿勢を貫いた。また、主犯として処罰を受けた光宗も、後年幕政への復帰を許されるなど、寛大な措置が採られた。まだ幕府は黎明期で体制が安定しておらず、あまりにも厳重な処分を下せば波紋が広がり幕府の基盤が揺らぐという憂慮に基づく裁定だったとされる。また、九条頼経の側近で義時の娘婿でもあった一条実雅は既に鎌倉内外の御家人に強い人脈を形成しており、泰時は武力衝突の回避と反泰時派の炙り出しの意味も含めて慎重に対応し続けたとする見方もある。『吾妻鏡』では泰時の温情としている。・・・
 <こ>の通説<に対して、>・・・この事件は、すでに将軍家と血縁もなく北条本家との関係も希薄となって影響力の低下を恐れた政子が牧氏事件と同じ構図を創り上げて、義時後家として強い立場を持つ事になる伊賀氏を強引に潰そうとして仕掛けたもので、泰時は政子の画策には乗らずに事態を沈静化させたとする、永井晋<(前出)>の説が唱えられている。泰時は政子によって処罰された伊賀光宗らも政子の死後すぐに幕府に復帰させている。しかし、永井の論文については、これに言及しつつも、「通説もなお傾聴すべきであろう」として、その推測を危ぶむ目崎徳衛の評価が示されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%B3%80%E6%B0%8F%E3%81%AE%E5%A4%89
 永井晋(1959年~)は、國學院大博士(歴史学)、金沢文庫主任学芸員。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E4%BA%95%E6%99%8B
 「伊賀氏<は、>・・・藤原秀郷の後裔で、鎌倉初期の朝光が伊賀守だったことから伊賀姓を呼称したとされている。朝光は二階堂行政の子ともいい、鎌倉幕府の宿老として活躍した。娘は執権北条義時の室となって政村を出産。<長男>の光季<(前出)>は承久三年京都守護となり、承久の乱で上皇方と戦って衆寡敵せず敗れて自刃している。<次男の>光宗は政所執事となり、甲斐国岩間牧・常陸国塩籠荘・大窪荘・陸奥好島荘・若狭国日向浦・谷田寺・但馬国広谷荘・備前国則安名・長田保・紙工保などを知行し<てい>た。」
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/bz_iga.html 前掲

⇒「注129」に登場する通説と永井説とはまた一味違う私の説を提示しておきます。
 私は、頼朝の競争相手を殺害するやり口を忠実に学んだところの、政子/義時姉弟のやり口は、義時の嫡子である泰時を通じて得宗家に最後まで受け継がれていったという認識であり、伊賀氏の失脚は、政子と泰時の共謀に基づき、でっちあげられた口実でもって行われた、と見ています。
 但し、それまでの諸事例に照らせば、伊賀氏に対して比較的「寛大」な措置に留めたのは、政子/泰時の意思で、それまでのやり口が余りに苛烈であったのを軌道修正したのであろう、とも。(太田)

 しかし、その政子も翌1225<年>7月に死去した。
 一ヵ月前の6月には大江広元も死去していた。
 享年は義時が62、政子が69、広元が78であった。
 源実朝亡き後の幕府を実質的に動かしてきた義時、それを陰でさせた広元、尼将軍として御家人たちをまとめ、対外的に幕府の顔となってきた政子、この3人の相次ぐ死は一つの時代の終焉を意味していた。」(226)

(続く)