太田述正コラム#1170(2020.12.7)
<坂井孝一『承久の乱』を読む(その56)>(2021.3.1公開)

⇒さて、太田コラム史観では、島津斉彬コンセンサス成立までの、推古朝から幕末までの日本史の補助線として最重要視しているのが聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想であり、その口伝担当者達でしたよね。
 順徳天皇が佐渡に配流となった時点で、仲恭天皇は4歳でしたから、同コンセンサス/構想はまだ開示されておらず、その後、17歳で亡くなるまで、母親の実家である九条道家の下で暮らしたけれど、前に記したように、私は九条家には同コンセンサス/構想は口伝されなかったと見ているので、結局、仲恭天皇は生涯同コンセンサス/構想を知ることがなかったと思われます。
 (順徳上皇が佐渡に配流となった翌年、京で生まれたのが忠成王(前出)です
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%80%89%E5%AE%AE%E5%BF%A0%E6%88%90%E7%8E%8B
から、同コンセンサス/構想はもちろん、忠成王にも開示されていなかったはずです。)
 承久の乱の後、廃位された仲恭天皇の後に天皇になった後堀河天皇に関しては、近衛家実から直接開示されたか、或いは、近衛家実から父親の後高倉院(守貞親王)に開示され、同院から開示されたことでしょうが、後堀河は、2歳の四条天皇に譲位し、院政開始後2年足らずで崩御しており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%A0%80%E6%B2%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87 前掲
それまでに四条天皇に同コンセンサス/構想を開示していたはずがなく、また、この四条天皇が事故死したのは12歳の時ですから、(その可能性は低いけれど、)亡くなるまでに、摂政の近衛兼経(家実の子)から同コンセンサス/構想が開示されていたとしても、誰にも開示する暇のないまま亡くなったと思われます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E6%9D%A1%E5%A4%A9%E7%9A%87 前掲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%85%BC%E7%B5%8C 前掲
 で、後嵯峨天皇ですが、父親の土御門上皇が土佐に配流されたのは自身が1歳の時ですから、同コンセンサス/構想が開示されていたはずがなく、21歳で突然即位させられた1242年に、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%B5%AF%E5%B3%A8%E5%A4%A9%E7%9A%87 前掲
当時関白であった近衛兼経
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%85%BC%E7%B5%8C 前掲
から開示された時、その趣旨が、彼には十分呑み込めなかったのではないでしょうか。

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[宮将軍(皇族将軍=親王将軍)]

 「1252年に北条時頼らの奏請により、後嵯峨天皇の第1庶皇子である宗尊親王が将軍として鎌倉に迎え入れられることとなる。しかし、すでに幕府の権力は執権の地位にあった北条氏が保持していたため、将軍といえども名目となっていた。そのため、就任は10歳前半までに行い、長じても20歳代までに将軍職を辞任して京都に返され、中務卿・式部卿などに任ぜられることが通例であった。ただし、最後の将軍であった守邦親王は幕府滅亡のためもあってか京都に戻れず鎌倉で出家している。
 なお、宮将軍として2代目となる惟康親王は将軍在任中に臣籍降下し、源姓を賜与され源惟康として源氏将軍となっているが、最終的には皇族に復帰し宮将軍に落ち着いている。・・・
 <藤原>頼経が傀儡であることを嫌い幕府の実権を北条氏から奪取しようとしたことは、幕府及び北条氏が摂家将軍に見切りをつける大きな要因となった。その点、宮将軍は鎌倉幕府と朝廷を結びつける役割を果たし、幕府の存在自体を正当化させる上で非常に大きな意義を持った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%B0%86%E8%BB%8D
 「摂家将軍九条頼嗣を廃し,後嵯峨天皇の皇子宗尊 (むねたか) 親王を将軍に迎え,以後その子惟康 (これやす) 親王,後深草天皇の皇子久明親王,その子守邦親王と4代続いた。」
https://kotobank.jp/word/%E7%9A%87%E6%97%8F%E5%B0%86%E8%BB%8D-1314564 
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 後嵯峨が、1252年に、北条宗家の要求を受け、摂家将軍廃止を飲んで宮将軍派遣を決めたことは、天皇家からの距離が遠いどころか、無縁の可能性すらあった、「下賤」の北条宗家による日本の権力奪取の永続化・・クーデタの合法化!・・をもたらしかねないことであって、そもそも、聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想の真っ向からの否定であり、このことと、「後嵯峨上皇が、後深草上皇の皇子ではなく、亀山天皇の皇子である世仁親王(後の後宇多天皇)を皇太子にして、治天の君を定めずに崩御した事が、後の北朝・持明院統(後深草天皇の血統)と南朝・大覚寺統(亀山天皇の血統)の確執のきっかけとなり、それが南北朝時代、更には後南朝まで続く200年に渡る大乱の源となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%B5%AF%E5%B3%A8%E5%A4%A9%E7%9A%87
ことも勘案すれば、後嵯峨は、天武と並ぶ、日本史上、最暗愚の天皇である、と言われても仕方がないでしょうね。
 但し、天武は「古来の伝統的な文芸・伝承を掘り起こすことに力を入れ」、日本書記、古事記の編纂に着手するなど、文化面で大きな功績があったのに対し、後嵯峨にはそういった功績もありません。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%B5%AF%E5%B3%A8%E5%A4%A9%E7%9A%87 前掲 (太田)

(続く)