太田述正コラム#1172(2020.12.8)
<坂井孝一『承久の乱』を読む(その57)>(2021.3.2公開)

 「九条道家と協調しつつ朝廷政治の中心にいた西園寺公経・実氏父子は、幕府が邦仁王を推したと知ると、すばやい身のこなしで道家から距離を取った。
 さらに、・・・1242<年>6月には実氏の娘・・・を後嵯峨に入内させ、8月に中宮に立てた。
 <その間に>翌・・・1243<年>に<生まれ>た皇子久仁(ひさひと)が、のちの後深草天皇である。
 一方、鎌倉では、・・・1242<年>6月、北条泰時<(注134)>が死去した。・・・

 (注134)「北条泰時は、家督を相続しても、その領地の大半を兄弟に譲り、自分は僅かな領地しか取りませんでした。・・・
 また泰時は大飢饉が起きると、自らが保証人になって富農から米を買い、貧乏人に与えて、来年豊作になれば元金だけ返済すればいいとします。
 それでも、貧しい農民には、来年返済できない人間も多く、泰時は、その場合には、元金の返済まで免除したので、最盛期には九千石という米の借金を抱え、返済に苦しんだという事です。・・・
 ・・・僅かな領地しかない泰時には大きな負担だった事でしょう。
 こんな有様なので、泰時の屋敷はボロで、みすぼらしく誰が見ても、当時の幕府の最高権力者の家には見えなかったそうです。」(執筆者・典拠不詳(太田))
https://hajimete-sangokushi.com/2017/01/15/houjyou/
 「寛喜の飢饉の際、被害の激しかった地域の百姓に関しては税を免除したり、米を支給して多くの民衆を救ったという逸話がある。この際には民衆を慮って質素を尊び、畳、衣装、烏帽子などの新調を避け、夜は燈火を用いず、酒宴や遊覧を取りやめるなど贅沢を禁止した。晩年に行った道路工事の際には自ら馬に乗って土石を運んだ事もある。・・・
 小説家の海音寺潮五郎は、泰時をはじめとする北条氏の質素な生活について「こうまで倹素な生活をしなければならないなら執権になどなる必要はないではないかという気までするが、こんな政治ぶりであったればこそ当時の武士も恩義に感じたのであろう」と書いている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%B3%B0%E6%99%82

 承久の乱で鎌倉方の大軍を率い、乱後は六波羅で戦後処理をこなし、父義時の死後、鎌倉に戻って『御成敗式目』<(注135)>を制定するなど、北条氏が主導する執権政治を確立した名執権であった。

 (注135)泰時は、また、「裁判の際には「道理、道理」と繰り返し、道理に適った話を聞けば「道理ほどに面白きものはない」と言って感動して涙まで流すと伝え<られ>ている。・・・
 このように誠実に仕事をこなしたため公家や民衆からも評判がよ<かった>・・・。
 しかし一方で近衛兼経などは承久の乱後の朝廷に対する厳正な措置を恨み、泰時を平清盛に重ねて悪評を下している。このような公家の一部の悪感情を反映してか泰時の死に際しては後鳥羽上皇の祟りを噂するものもいた。」(上掲)

⇒北条泰時についてですが、彼が、その後の北条得宗家による人間主義的統治の理念型を樹立したことは確かではあるものの、私見では、それは、北条得宗家に対する、
一、方や、京における、(聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想承継者たる近衛兼経の「正しい」泰時評に象徴されるところの、)天皇家と摂関家の心ある人々によるところの、より高い権威が醸し出す嫌悪感、及び、
二、方や、鎌倉における、
 (一)同僚達から醸し出されるところの、北条得宗家によって誅殺された、
  (ア)清和源氏の少なからざる部分、や、
  (イ)(得宗家以外の北条家のそれを含む)有力御家人達、
    の関係者達の恨みに加えて、
 (ニ)本来、北条得宗家嫡流になるはずだったところの、泰時の異母弟達の、(名越家の祖の)朝時の剝き出しの敵意
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%9C%9D%E6%99%82
並びに(極楽寺流の祖の)重時の敵意を昇華させた当てつけ的人間主義実践
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E9%87%8D%E6%99%82
(コラム#11334も参照)、
に直面させられ続けたことから、泰時には、自分及び自分の子孫を守るためには、質素な生活を送り、ひたすら人間主義的統治を行うこと以外に選択肢がなかっただけのことであった、というのが、彼(や彼の子の時頼)の生き様に対する、(身も蓋もないとの誹りを甘んじて受けますが)私の最新の評価です。(太田)

 二年前には叔父の時房も・・・死去しており、また一つの時代が幕を閉じた。
 泰時の長男時氏<(注136)>がすでに死去していたため、新たな執権には時氏の子、19歳の経時<(注137)>(つねとき)が就いた。

 (注136)1203~1230年。「1221年・・・の承久の乱では・・・宇治川合戦で・・・幕府軍が苦戦している中で自ら宇治川を敵前渡河する功績を立てた。・・・1224年)6月、父が第3代執権として鎌倉に戻ったため、入れ替わりで六波羅探題北方に任じられて京都に赴任する<が、>・・・病に倒れて鎌倉へ戻<り、死去。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%99%82%E6%B0%8F
 (注137)1224~1246年。執権就任時、「連署は置かれなかった。石井清文は、北条氏一門ならば朝時・重時・時盛・政村・有時・実時らが、非北条氏一門ならば足利義氏や三浦泰村なども候補になり得たであろうが、経時を単独で支えられるような卓越した有力者がおらずに互いに牽制しあう関係にあるという政治的不安定要因が連署の設置を断念させ、また北条時房の没後に泰時が執権・連署を置かなかったことも経時に単独執権制を選択させた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E7%B5%8C%E6%99%82
 石井清文(1953年~)は、玉川大文(教育)卒、戸公立小学校教諭、兵庫教育大院修士、同大博士(学校教育学)、玉川大教育学部非常勤講師。日本古代中世史専攻。
https://www.amazon.co.jp/%E9%8E%8C%E5%80%89%E5%B9%95%E5%BA%9C%E9%80%A3%E7%BD%B2%E5%88%B6%E3%81%AE%E7%A0%94%E7%A9%B6-%E7%9F%B3%E4%BA%95-%E6%B8%85%E6%96%87/dp/4866020903

 将軍頼経は25歳。
 将軍・執権の年齢が逆転し、幕政の主導権をめぐる緊張関係が生じた。
 ・・・1244<年>4月、頼経は子の頼嗣に将軍職を譲り、「大殿」として勢力を保持した。
 しかし、<1245>年3月、病に倒れた経時に代わって執権となった弟の時頼が攻勢に出た。
 6月、頼経の粛清を敢行し、7月には頼経自身をも京都に送還したのである。
 これは北条氏の嫡流である『得宗(とくそう)』が専制権力をふる道を開くものであった。」(232~233) 

(続く)