太田述正コラム#11706(2020.12.9)
<坂井孝一『承久の乱』を読む(その58)>(2021.3.3公開)

 「同じ<1246>年1月には、後嵯峨が久仁親王に譲位し、すでに院政を開始していた。
 頼経の京都送還で痛手を受けた九条道家は、幕府から関東申次も更迭され失脚した。
 新たな関東申次には幕府の指名を受けた西園寺実氏<(注138)(コラム#11376、11557)>が就任し、以後、この職は西園寺家の世襲となる。

 (注138)1194~1269年。「鎌倉幕府と親しい公家として知られ、3代将軍・源実朝が暗殺された鶴岡八幡宮での右大臣拝賀の儀式にも参列している。また、承久の乱の際には後鳥羽上皇の命令で父・公経と共に幽閉された。・・・1231年・・・内大臣、・・・1235年・・・右大臣、・・・1246年・・・には太政大臣となった。続いて関東申次・院評定衆も務める。女の姞子(大宮院)が後嵯峨天皇の中宮となり、後の後深草・亀山両天皇を産んだ。また、大宮院の妹の公子も後深草天皇に入内して皇后となっている。なお、続後撰和歌集、続古今和歌集、続拾遺和歌集には歌が収録されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%AE%9F%E6%B0%8F

 承久の乱から20数年が経ち、朝幕ともに主要メンバー・勢力関係が一新されたことで、後嵯峨院政期には朝幕協調が復活した。
 その象徴が・・・1252<年>4月の後嵯峨の皇子宗尊(むねたか)親王<(注139)>の鎌倉下向、源実朝が夢見た親王将軍の推戴である。

 (注139)1242~1274年。将軍:1252~1266年。「親王は後嵯峨天皇の事実上の長子であ<ったが、>・・・母方の身分が低いために皇位継承の望みは絶望的であり、後嵯峨天皇は親王の将来を危惧していた(ただし、後深草天皇誕生以前は最も有力な皇位継承権者で、その後も万一の事態に備えて出家をさせずに置かれている)。その一方で、将軍家と摂関家の両方を支配する九条道家(頼嗣の祖父)による幕府政治への介入に危機感を抱いていた執権北条時頼も、九条家を政界から排除したいという考えを持っていた。ここにおいて天皇と時頼の思惑が一致したため、「皇族将軍」誕生の運びとなったのである。・・・
 当時の幕府は既に北条氏による専制体制を整えていたため将軍には何ら権限は無かった。そのため和歌の創作に打ち込むようになり、歌会を何度も行った。その結果、鎌倉における武家を中心とする歌壇が隆盛を極め、後藤基政・島津忠景ら御家人出身の有能な歌人が輩出された。・・・
 1266年・・・6月(7月とも)、正室の近衛宰子と僧・良基の密通事件を口実に謀叛の嫌疑をかけられ、北条政村(執権)・時宗(連署)らによる寄合で将軍の解任と京への送還が決定された。この騒動で御家人たちが鎌倉に馳せ集まり、名越流北条氏の北条教時が更迭に断固として反対し、時宗の制止を無視して武装した軍勢を率いて示威行動を行い、その軽率さを叱責された。次の将軍は嗣子の惟康王が就いた。・・・1272年・・・、二月騒動で側近の中御門実隆が拘束され、その直後に父の後嵯峨法皇の崩御に伴うためとして出家した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E5%B0%8A%E8%A6%AA%E7%8E%8B
 島津忠景(1241~1300年)は、「<島津家初代島津忠久の次男の>島津忠綱の三男。・・・。薩摩国知覧院(現在の鹿児島県南九州市)地頭。但馬国朝来郡粟鹿大社(規模100町)地頭・・・尊親王の更迭をめぐる騒動の際には多くの近臣が親王を見捨てて将軍御所から逃げ出す中、忠景ら数名のみが御所に残留し<た。>・・・晩年は六波羅探題に転出し、京都で活動していたと推測される・・・
 成熟期鎌倉歌壇における代表的な武家歌人と目される。・・・蹴鞠にも造詣が深<かった。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E5%BF%A0%E6%99%AF
 近衛宰子(さいし。1241~?年)は、「近衛兼経の娘。・・・1260年・・・2月5日、20歳で幕府執権・北条時頼の猶子として鎌倉に入り、3月21日、19歳の将軍宗尊の正室となり、御息所と呼ばれる。時頼の猶子にすることで、北条氏の女性が将軍に嫁すという形を取っている。・・・1264年・・・4月29日、惟康王を出産する。
 ・・・1266年・・・、宰子と出産の際に験者を務めた護持僧良基との密通<疑惑>事件が<発生>する。6月20日、良基は逐電し、連署である北条時宗邸で幕府首脳による寄合が行われ、宗尊親王の京都送還が決定されたと見られる。宰子とその子惟康らはそれぞれ時宗邸などに移された。
 鎌倉は大きな騒ぎとなり、近国の武士たちが蜂のごとく馳せ集った。7月4日、宗尊親王は将軍職を追われ、女房の輿に乗せられて鎌倉を出ると、20日に帰洛することになる。京には「将軍御謀反」と伝えられ、幕府は3歳の惟康王を新たな将軍として擁立した。
 その後、宰子は娘の倫子女王を連れて都に戻った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%AE%B0%E5%AD%90
 良基(?~1266年)は、「藤原<(松殿)>基房の孫。真言宗。定豪(じょうごう)にまなび,鎌倉で祈祷(きとう)をおこなう。<1266>年6代将軍宗尊親王の護身験者となるが,親王の謀反の疑いに関係して高野山にのがれ,食をたって同年死去。通称は松殿法印,松殿僧正。」
https://kotobank.jp/word/%E8%89%AF%E5%9F%BA-17961

⇒聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想に反すると宮将軍制に反対したに違いない近衛兼経が、娘の宰子を宗尊の下に派遣する、しかも、(軽蔑しきっていたと想像される、位の低い北条時頼の猶子に一旦した上でそうする、ことを肯じたのは奇異な感じを覚えますが、それ以前より、(近衛家と極めて関係の深い)島津家から、忠綱とその息子の忠行と忠景の3人も宗尊に近侍している
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E5%BF%A0%E7%B6%B1 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E5%BF%A0%E8%A1%8C
背景には、近衛家からの島津家への働きかけがあったとも考えられ、ますます奇異の感が募ります。
 私の、取敢えずの相当大胆な仮説を披露しておきましょう。
 再び、1246年閏4月の宮騒動
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E9%A8%92%E5%8B%95
のようなことが起きれば、今度は、朝廷と北条家との全面的武力衝突であった承久の乱とほぼ同じ構図の、朝廷と北条得宗家との全面的武力衝突に発展しかねず、そうなった場合、北条得宗家によって、(義朝一族が滅ぼされたように)天皇家が滅ぼされてしまう可能性こそないであろうけれど、平氏を僭称(?)していた北条氏(北条得宗家)が、平家の先例に倣って、天皇家を事実上乗っ取ってしまう可能性はある、と近衛兼経が危惧し、島津家に、そうならないよう、あらゆる手立てを尽くすように依頼し、それを承知した島津家が一族から3名も宗尊に伺候させた、というものだ。
 そして、その上で、その数年後、今度は兼経は、娘の宰子にも同じ役割を言い含めた上で、彼女を鎌倉に下向させた、と。
 さて、今回は、北条得宗家の方から、名越家の北条教時の不穏な動きに対して「積極的に」先手を取って宗尊親王追放に乗り出したところ、それを察知した島津家の3人が、宰子と調整の上、良基を逃亡させると同時に宰子の良基との密通の噂をばらまき、北条得宗家の出鼻を挫いた、と。
 予想外の成り行きに苦笑し苦慮しつつも、北条得宗家は、当初の予定通り宗尊を京に送還することにしたところ、本来、ここで、北条教時は、宗尊送還を阻止すべく武力蜂起するつもりであったのに、宗尊が奥方に間男されてしまった情けない男、という風評が流布してしまっていたため、拍子抜けして、武力蜂起は取りやめたけれど、憤懣やるかたなく、示威行為だけは行った、とも。(太田)

 ただ、それは実朝が構想した「東国の王権」とは別物であった。
 時代が劇的に変化していたからである。
 将軍となった宗尊も、専制権力を握った北条得宗家によってやがては京都に送還される運命にあった。
 とはいえ、13世紀半ば、乱後の世界にようやくしばしの平和が訪れたことは確かであった。」(233)

(続く)