太田述正コラム#11724(2020.12.18)
<亀田俊和『観応の擾乱』を読む(その4)>(2021.3.12公開)

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[尊氏双極性障害説を巡って]

 「1960年代、歴史研究者の佐藤進一は尊氏を双極性障害(1960年代当時の呼称は躁鬱病)ではないかと推測していた。しかし、この説はその後2010年代に、歴史研究者の呉座勇一によって強く否定されている。
 佐藤は、尊氏が中先代の乱の鎮圧に後醍醐天皇の許可なしに向かう途上で、既に後醍醐への反乱を計画していたと想定した。そして、その後それにも関わらず尊氏は素直に後醍醐の償還命令に応じようとしたり、いざ後醍醐との戦いである建武の乱が発生すると鎌倉の浄光明寺に引きこもってしまったことなどを挙げ、その行動の矛盾点を指摘した。佐藤は尊氏の行動を歯切れが悪いと批判し、その行動矛盾の理由について、天皇に反乱してはならないという日本古来の「番犬思想」とこの時代に舶来した儒学的易姓革命思想の板挟みになったことや、後醍醐との個人的親近感に基づく解釈などを取り上げている。
 さらに、佐藤は、尊氏の祖父の貞氏の発狂歴や、先祖の家時の自殺伝説(いわゆる置文伝説)、そして曾孫の義教の性格などを挙げ、足利将軍家の血筋を「異常な血統」と評している。そして、尊氏の行動の複雑さは、双極性障害が遺伝的に受け継がれたものであると主張した。
 これに対し、呉座は、当時の史料に基づく限り、尊氏の行動は後醍醐への忠誠心と直義への兄弟愛で終始一貫しており、異常であるのはむしろ佐藤の不自然な想定の方であるとした。
 まず第一に、精神医学の専門家ではない者が十分な証拠もなしに「双極性障害は遺伝的なものである」「患者の行動は常人には理解できないほど異常である」と決めつけることは、現実の患者への差別・偏見を招く恐れがあり、慎重になるべきであるとする。
 第二に、佐藤が尊氏の行動に「番犬思想」として歯切れの悪さを感じるのは、佐藤ら戦後すぐの歴史研究者たちに政治的偏向による先入観がかかっていたからであると主張する。実際には、史料的に尊氏が後醍醐への反乱を意図していたと確証するものはない。むしろ、『梅松論』(14世紀半ば)は、中先代の乱参戦を「天下のため」「弟の直義を救うため」とし、建武の乱で引きこもりをやめて後醍醐に対峙したのも弟を救うためにやむを得ずとしており、呉座も『梅松論』説を支持する。呉座の推測によれば、尊氏は天下や後醍醐のために良かれと思って独断で行動していたが、厳密な許可を得ずとも後醍醐は自分の行動を追認してくれるだろうと楽観視しており、そこに尊氏と後醍醐の行き違いがあったのだという。つまり、佐藤の側に尊氏は当初から後醍醐への反乱を計画していたという先入観があるために、その行動が佐藤視点ではどっちつかずとして複雑に見えたのではないか、と主張した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E5%B0%8A%E6%B0%8F

⇒呉座による佐藤の尊氏双極性障害者説批判には概ね同感だが、『梅松論』の記述を鵜呑みにしている点では呉座にも物足らなさを覚える。(太田)
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 「その後<、戦いに紆余曲折はあったが、>・・・翌<1336>年・・・8月15日に持明院統(北朝の皇統)の光厳上皇の院政がはじまり、弟の豊仁(とよひと)親王が即位して光明天皇となった。
 後に北朝と呼ばれる朝廷が発足したのである。・・・
 追い込まれた後醍醐天皇は、<1337年>10月10日に足利尊氏と講和し、比叡山を下りた。
 11月2日には、後醍醐が光明へ三種の神器を授ける儀式が行われた。
 同月7日、新しい武家政権の基本法典である『建武式目』が制定された。
 これをもって室町幕府が発足したとするのが定説だ。
 ところが12月21日、後醍醐天皇が大和国吉野へ亡命し、自分こそが正統の天皇であると主張した。
 南朝の登場であり、ここに約60年間にわたる南北朝の内乱時代が開幕する。
 建武5<(1338)>年閏7月2日、後醍醐皇子の恒良(つねよし)親王を奉じて越前国へ下向し、幕府軍に抵抗していた南朝の新田義貞が、同国藤島の戦いで戦死した。
 これが大きな契機となって、8月11日、北朝から尊氏は征夷大将軍、直義も左兵衛督(かみ)に任命された。
 その直後から、直義の裁許下知状(げちじょう)の発給と直義主催の評定の式日(しきじつ)開催・・・が開始される。
 これをもって、室町幕府は一応完成したのである。
 幕府が成立する頃、尊氏は直義に政務を譲ろうとした。
 直義はこれを再三辞退したが、尊氏の強い要望に断りきれずに受諾した。
 <これ>は『梅松論』<(注6)>に記された逸話である。

 (注6)「著者は不明。かつては尊氏の側近の細川和氏や天台宗高僧の玄恵などに比定する説があったが、1997年時点では否定されている。しかし、和氏ではなくとも細川氏の一族の誰かであるという可能性はある。あるいは、臨済宗の高僧夢窓疎石に関係の深い人物とも推測されている。また、武田昌憲は少弐氏もしくはその関係者を推定する。・・・
 19世紀後半の菅政友は、「廿余年」は「十余年」の誤記であろうとし、崇光天皇が即位に臨むまでの記事が書かれていることから、その即位年である・・・1349年・・・成立であると結論付け、これが古説として通説となっていた。・・・
 1987年、武田昌憲は、・・・1358–1361年説を唱え・・・小秋元段も<、それが>「今日[引用者注:1994年]最も妥当な理解とされている」と追認している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E6%9D%BE%E8%AB%96

 『梅松論』は、尊氏側近の武将が・・・1349<年>頃に完成したと推定されている歴史書で、南北朝時代の著名な軍記物『太平記』よりも史料的な信頼性は高いと考えられている。

⇒『梅松論』の著者と成立時期のどちらについても、亀田は「旧説」を採用していますが、何らかの説明が必要でした。(太田)

 前項で紹介した室町幕府発足の経緯からもうかがえるように、観応の擾乱にいたるまでの尊氏の政治に対する姿勢は、基本的に消極的であった。」(3~5)
 
⇒既に記したように、私はこのような見方に与していないわけですが、亀田もまた、『梅松論』の尊氏描写を鵜呑みにしていることが気になります。

(続く)