太田述正コラム#11726(2020.12.19)
<亀田俊和『観応の擾乱』を読む(その5)>(2021.3.13公開)

 「・・・尊氏が行使した数少ない権限に、恩賞充行(おんしょうあておこない)がある。
 恩賞充行とは、合戦で軍忠を挙げた武士に、褒美として敵から没収した所領を給付する行為である。・・・
 そして尊氏は、・・・守護職補任(ぶにん)・・・<すなわち、>守護の任命も行った。・・・
 当時の尊氏が行使した権限は、わずかにこの二つだけなのである。・・・
 『梅松論』をそのまま受け取っていいのではないか。
 初期室町幕府の体制は・・・佐藤進一氏の<言う>・・・二頭政治ではなく、直義が事実上の最高権力者として主導する体制だったのである。・・・
 尊氏が行政機能の一部を保持した理由については、やはり南朝との戦争が継続している状況が大きかったと考えられる。
 充行・安堵・裁許などの膨大な業務を直義一人ですべてこなすのは不可能であった。・・・
 北朝が発足したわずか2日後の・・・1336<年>8月17日、尊氏が京都の清水寺に願文<(注7)>を奉納して出家・遁世を希望したことは著名な史実である(常盤山文庫文書)。

 (注7)「「この世は夢であるから遁世したい。信心を私にください。今生の果報は総て直義に賜り直義が安寧に過ごせることを願う」という趣旨の<もの。>・・・
 尊氏は以後も出家や遁世の願望を口にしたり文章や絵画で表現することが多く、また太平記には劣勢となった尊氏が切腹をしようとしては周囲に止められたといったエピソードが多く収録され、非常に精神的に不安定であったことが伺える。
この願文は文法や文字に乱れが大きい。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E5%B0%8A%E6%B0%8F

⇒一流の役者であることは、大政治家の必要条件なのであり、大政治家たる尊氏は、見事に、後醍醐天皇や直義、等をたぶらかすための演技を行い続けたのだと思うのです。(太田)

 だが、彼が本気で引退を望んだとしても、周囲がそれを許さなかったのは右の事情によるものであろう。・・・
 後期の建武政権の体制<は>、初期室町幕府の体制と酷似している・・・。
 すなわち、後醍醐≒尊氏、雑訴決断所<(注8)>≒直義とみなせよう。」(8~9、12~13)

 (注8)「1333年(元弘3)建武新政府発足後まもなく設置された訴訟機関。同じころ設置された記録所が大事を裁決するのに対して・・・おもに土地関係の・・・一般訴訟を扱った。鎌倉幕府の引付(ひきつけ)に相当し、旧幕府の職員も採用された。・・・。34年(建武1)その権限を明確にし、領家・地頭間の紛争や年貢、本領安堵に関することを扱った。同一訴訟を記録所と重複して扱うなどの混乱もあり、35年足利尊氏挙兵後は機能を失った。」
https://kotobank.jp/word/%E9%9B%91%E8%A8%B4%E6%B1%BA%E6%96%AD%E6%89%80-69204
 「記録所<は、>・・・「きろくしょうえんけんけいじょ(記録荘園券契所)」の略) ・・・一〇六九<年>)、後三条天皇が荘園整理の政策をとり、その機関として設置した役所。弁、寄人などの職員を置いた。のち、数度にわたって再興された。・・・
 1334年後醍醐天皇が親政復活を目標として,後三条天皇の政治的意図に沿って再興した。名和長年・楠木正成らを寄人 (よりゆうど) とし,一般政務と訴訟にあたらせた、が、>・・・雑訴決断所(ざっそけつだんしょ)が設置されると、重事のみの裁決を行う機関となった。建武政権崩壊後も天皇親政時には設置され、「記録所庭中」が行われたが、室町期にはしだいに訴訟機関としての実を失った。その後は不明な点が多いが、戦国期までその名がみえる。」
https://kotobank.jp/word/%E8%A8%98%E9%8C%B2%E6%89%80-53920#E4.B8.96.E7.95.8C.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E7.AC.AC.EF.BC.92.E7.89.88

⇒『梅松論』が出回り始めたのは尊氏の死後ですが、私は、その骨子は、尊氏自らが執筆したか、口述して筆記させたのではないか、と、大胆に想像しています。
 (その場合の尊氏の目的は、お分かりですよね。)
 で、極度に単純化すれば、『梅松論』/亀田が、日本の、権威は、天皇と尊氏が共有的に担い、権力は直義が担った、としているのに対し、佐藤進一は、権威は天皇が、権力は尊氏と直義が共有的に、担った、としているところ、建武体制下では、後醍醐は権威と権力を一手に担っていたのですから、亀田が、(建武体制下の)後醍醐≒(初期室町幕府体制下の)尊氏、とも主張しているのは、整合性がとれていません。
 いずれにせよ、この両説に対し、私自身は、権威は天皇と尊氏が共有的に担い、権力は尊氏が一手に担っていた、と見ている次第です。
 すなわち、恩賞充行と守護職補任という最重要・・←恐らく・・な権力の行使は尊氏が専一的に行い、それ以外の権力行使は、尊氏が基本的に直義に委任していたけれど、重要案件はその都度直義が尊氏に相談し尊氏が決定していたのだろう、と。
 そもそも、「膨大な業務を・・・一人ですべてこなすのは不可能」といったことを亀田が記しているのは不思議でなりません。
 どんなに厖大かつ複雑な業務を行っている会社であっても、CEO(最高経営責任者)は一人、が当たり前ですが、それは業務すべてをCEOがこなしていることを意味するわけでは当然ないからです。
 皇帝独裁制であったところの、支那の王朝(典拠省略)においてだって、初期室町幕府時代の日本よりも、はるかに流動的、複雑、にして広大な領域の統治や対外戦争をその歴代王朝の歴代皇帝達は、一人で指揮(command)したわけですが、それをどう考えているのか、と、私は亀田には問いただしたいですね。(太田)

(続く)