太田述正コラム#11728(2020.12.20)
<亀田俊和『観応の擾乱』を読む(その6)>(2021.3.14公開)

 「それではなぜ、建武政権では後醍醐が恩賞充行を担当し、決断所がそれ以外のすべての権限を行使したのであろうか。

⇒亀田は、後醍醐が「一般政務と恩賞充行を担当し」と書かなければならないところを、わざと「一般政務」を消しています!(太田)

 後醍醐–尊氏が行使した恩賞充行権は、既存の所領秩序を変更し、新しい秩序を創造する機能とみなせる。
 換言すれば、変革を担う役割である。
 一方、雑訴決断所–直義が行使した所領安堵や所務沙汰などの権限は、既存の所領秩序を維持する機能である。
 言わば、保全である。
 軍事指揮や警察活動も、「既存の秩序の破壊を目論む反乱や犯罪を鎮圧し、あるべき姿に秩序を戻す」と考えれば、保全の機能に分類できるであろう。・・・

⇒ここはちょっと呆れてしまう箇所です。
 軍事(軍事指揮)は、即、「特に重視される」(後出)機能の最たるものである、と言っても亀田にはワケが分からないでしょうから、次のような言い方をしましょうか。
 軍事(軍事指揮)には色はついておらず、(外敵から自国を防衛したり外敵の地に進撃したりするためのものは一先ず措いて、亀田のために話を国内に限定するとして、)「あるべき姿に秩序を」「戻す」場合もあれば、「創造する」場合もあるからであり、当たり前のことながら、建武政権体制なる「秩序」も初期室町幕府体制なる「秩序」も、どちらも、尊氏の軍事指揮によって「創造」されたからです。(太田)

 創造と保全はすべての政治権力が必ず持つ要素である。
 味方からの広範な支持を必要とする新政権においては、創造の要素が特に重視される。
 他方、政権基盤が確立した政権では、保全の要素が重要となってくる。

⇒語るに落ちたとはこのことであり、亀田は、このくだりで、建武政権下では後醍醐が、初期室町幕府下では尊氏が、「特に重視される」機能を担ったことを認めてしまっています。(太田)

 建武政権と初期室町幕府は、創造機能と保全機能がかなり明確に分離した政権だったのである。・・・

⇒仮にそうだったとしても、それぞれにおいて、「特に重視される」機能を担ったところの、後醍醐と尊氏は、その全てが「特に重視される」「創造機能」の全てと、「保全機能」中の「特に重視される」機能、の双方を担った、と考えるのが自然、いや当然であって、建武政権も初期室町幕府も、「創造機能と保全機能がかなり明確に分離した政権」などではありえなかった、と考えるべきでしょう。(太田)

 幕府初代執事高師直<(注9)>(こうのもろなお)・・・の先祖は、天武天皇とされている。

 (注9)?~1351年。「その才覚の最たるものは2度15年間(1336年 – 1349年、1349年 – 1351年)にわたる室町幕府執事としての行政手腕であり、前代建武政権の後醍醐天皇が定めた先駆的な法制度を改良して幕政に取り入れ、初代将軍尊氏のもと、室町幕府草創期の政治機構・法体系を整えた革新派の名宰相である。その政策の代表例としては、執事施行状(しつじしぎょうじょう)の考案・発給が挙げられ、有効に機能するものとしては日本で初めて、土地給付の強制執行を導入した。かつて、鎌倉幕府では、武士や寺社が法的に獲得した恩賞(=土地)の実効支配は自助努力に任されていたため、弱小な武士・寺社では不法占拠者を追い出せず、泣き寝入りせざるを得ないことがあった。この問題に対し、建武政権の後醍醐天皇は、弱者を保護し秩序を維持するため、日本で初めて恩賞の宛行(「あておこない」または「あてがい」、土地給付)の強制執行を導入したものの(雑訴決断所牒)、その制度は手続きが煩雑すぎて円滑に機能しなかった。これを踏まえ、師直は室町幕府執事として、土地給付の強制執行の手続きを申請時・実行時の両方で簡便化した執事施行状を考案。この改良によって弱小な武士・寺社への救済がより実効的に機能するようになり、室町幕府の求心力を高めることに成功したのである。
 さらに武将としても、兄弟の師泰と共に建武の乱や南北朝の内乱で活躍した。戦場では伝統よりも合理性を重視し、首実検の手続きを簡略化し大規模な軍事行動を可能にする分捕切捨の法(ぶんどりきりすてのほう)を初めて採用した。他方、石清水八幡宮・吉野行宮・金峯山寺蔵王堂などの聖域を焼き討ちして当時の公家社会に衝撃を与え、痛烈な批判を浴びた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B8%AB%E7%9B%B4
 「分捕切捨の法<は>・・・、当時の戦は討ち取った首を戦闘中ずっと抱えながら戦い、軍奉行に認められるまでそのままだった。だが、こんなことをしていては当然機動力は落ちるし、動きづらいことが故に逆に討ち取られることもある。そこで、近くの仲間が確認したらそれで充分、首を捨てて速やかに行動するよう命じた<も>のだ。」
http://ncode.syosetu.com/n7653ea/24/

 天武の孫長屋王の玄孫である峯緒王(みねおおう)が、・・・844<年>に高階真人(たかしなのまひと)という氏姓を賜って臣籍降下した。
 ・・・991<年>、高階成忠(なりただ)が姓(かばね)を真人から朝臣(あそん)に改めた。
 成忠の弟敏忠(としただ)の曽孫惟孝(これたか)(章(あき))の母が源頼義の妹とされ、惟孝の子惟頼(これより)から武士として清和源氏に臣従したと系図には記される。
 惟頼は、実は源義家の四男であったとする所伝も存在する。
 惟頼の子惟貞(これさだ)(真)から源義家–義国父子の執事となり、以降代々足利氏の執事を務めたとされる。
 ただし、それが一次史料から確実に論証できるのは師直の曽祖父重氏(しげうじ)からである。・・・」(13~14)

(続く)