太田述正コラム#11754(2021.1.2)
<亀田俊和『観応の擾乱』を読む(その19)>(2021.3.27公開)

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[本能寺]

 前々コラムと前コラムで本能寺が登場したので、本筋から離れるが、少し調べてみた。

 「本能寺は、当初は「本応寺」という寺号で、応永22年(1415年)、京都油小路高辻と五条坊門の間に、日隆<(注33)>によって創建されたものである。・・・

 (注33)1385~1464年。「[桃井直常<の>・・・長男の直和・・・の子で<越中国>大門町浅井城城主]桃井尚儀[と斯波義将の娘益子]の子として越中国射水郡(現・富山県射水市)に生まれる。1396年・・・遠成寺・日深を師として出家。・・・
 1415年・・・小袖屋宗句の寄進により、本応寺(現・本能寺)を建立。1420年・・・細川満元の寄進により、本興寺を建立。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%9A%86_(%E6%9C%AC%E9%96%80%E6%B3%95%E8%8F%AF%E5%AE%97)
https://blog.goo.ne.jp/magohati35/e/0ba195ed640fcfb6b5baf32deaafd62a ([]内)
 細川満元(1378~1426年)は、「室町幕府11代管領。摂津国・土佐国・讃岐国・丹波国守護。・・・細川京兆家8代当主。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E6%BA%80%E5%85%83

 日隆は妙本寺4世・日霽に師事するが、法華経の解釈をめぐり本迹勝劣を主張<(注34)>した日隆は、妙本寺5世・月明と対立。・・・

 (注34)「勝劣派(しょうれつは)は、日蓮門下の諸門流のうち、所依の法華経を前・後半で迹門(しゃくもん)・本門(ほんもん)に二分し、本門が迹門に優れるという勝劣をたてる諸派の総称。(対義語→一致派)・・・
 日蓮正宗<は>、勝劣派の宗派」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E5%8A%A3%E6%B4%BE

 1418年・・・、本応寺は月明により破却され、日隆は河内三井(本厳寺)・尼崎(本興寺)へ移った。・・・1429年・・・、帰洛して・・・千本極楽付近の内野(大内裏跡)に本応寺を再建。・・・1433年・・・、〈六角氏の援助のもとに〉・・・六角大宮の西、四条坊門の北に・・・再建し、寺号を「本能寺」と改めた。
 その後、本能寺は・・・栄え、中世後期には洛中法華21ヶ寺の一つとなり、足利氏の保護を受けた。・・・応仁の乱後、京都復興に尽力した町衆は、大半が法華宗門徒で、法華宗の信仰が浸透し「題目の巷」と呼ばれ、本能寺は繁栄を極めた。・・・<ところが、>1536年・・・天文法華の乱にて延暦寺・僧兵により、堂宇はことごとく焼失し、一時堺の顕本寺に避難した。
 ・・・1537年<~>・・・1538年・・・ごろ・・・帰洛し、日承[(にちじょう)]上人(伏見宮第5代邦高親王の子)が入寺して本能寺8世となった。・・・1545年・・・、西洞院大路、油小路、六角小路、四条坊門小路にわたる方1町(4町々)・・・に・・・伽藍が造営され・・・た。
 日隆の開山以来、尼崎の本興寺とともに山号はなく両山一貫主[(かんじゅ)]制をしいていたが、その後、歴代貫主が地方に布教し、日承の時代には末寺が畿内、北陸、瀬戸内沿岸諸国さらに種子島まで広布し、本能寺を頂点とする本門流教団が成立した。
 本能寺は、早くから種子島に布教していた。このことから鉄砲・火薬の入手につき戦国大名との関係が深かった。
 織田信長は日承に帰依して、この寺を上洛中の宿所としていた。しかし、<1582年>6月2日・・・、・・・本能寺の変が起きて、その際の兵火で堂宇が焼失した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%83%BD%E5%AF%BA
https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E6%89%BF-1385269 ([]内)
https://kotobank.jp/word/%E6%9C%AC%E8%83%BD%E5%AF%BA-135226(〈〉内)
 「再建の途中、豊臣秀吉の区画整理にあい、89年に現在地に移転した。」(上掲) 
 ちなみに、「瑞龍寺<は、秀吉の姉の>・・・日秀尼<が>・・・開山<であり、>・・・<秀次切腹の1年後にして秀吉の死の2年前である>1596年・・・後陽成天皇より嵯峨の村雲(現・二尊院の北側)の寺地と「瑞龍寺」の寺号、そして寺領1000石を賜って創建された・・・日蓮宗唯一の門跡寺院である。」<(コラム#11375参照)>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%91%9E%E9%BE%8D%E5%AF%BA_(%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%B8%82)
 「伏見宮<の来歴だが、>・・・北朝第三代崇光天皇の第一皇子・栄仁親王は持明院統の嫡流にあたったが、その皇位継承は将軍足利義満に忌避されたと考えられ、皇位を継承することなく御領のひとつ伏見御領に移り、伏見殿と呼ばれるようになった。
 第3代・貞成親王は、自ら伏見宮と称していた。貞成親王の第一王子は後花園天皇として即位し、第二王子の貞常親王が4代目となったが、貞常親王は兄の後花園天皇から永世「伏見殿」と称することを勅許され、以後、代々「伏見宮」と名乗るようになった。・・・
 明治になるとそこから数多くの連枝が新宮家を創設した。・・・
 <戦後>皇籍離脱した11宮家(旧皇族)はいずれもこの伏見宮の系統である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE
 しかし、伏見宮第5代邦高親王のウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E9%82%A6%E9%AB%98%E8%A6%AA%E7%8E%8B
記載の同親王の子の中に日承らしき人物が出てこない!

(続く)