太田述正コラム#11764(2021.1.7)
<亀田俊和『観応の擾乱』を読む(その24)>(2021.4.1公開)

 「・・・1350<年>正月3日、高師冬<(注42)>が関東執事に任命されて、東国に下向した。

 (注42)?~1351年。「高師直の従兄弟にあたる(後に師直の猶子となる)。・・・
 尊氏の命を受けて[鎌倉公方・・・足利義詮を補佐して]・・・1338年・・・から関東の平定に乗り出し、翌年に関東執事に就任、北畠親房・小田治久と戦い、・・・1343年・・・冬までに関東平定を成し遂げた。功績により武蔵、次いで伊賀の守護に任じられている。・・・1344年・・・に関東執事職を従兄弟の高重茂に交代、翌・・・1345年・・・の天龍寺供養においても尽力した。
 ・・・1349年・・・、尊氏の次男基氏が鎌倉公方として関東に派遣されると、上杉憲顕と協力して幼少の基氏の補佐に当たる。しかし都で師直と足利直義による対立が発生すると、師冬も直義派であった憲顕と対立することになる。敗れた師冬は・・・1350年・・・末に鎌倉から没落して[、かつ途中基氏を奪われ、]甲斐国の須沢城(山梨県南アルプス市大嵐)に逃れたが、そこも諏訪氏(直義派の諏訪直頼)の軍勢に包囲されることとなり、翌年1月17日、逃げ切れないことを悟り、同地で自害して果てた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B8%AB%E5%86%AC

 その後、・・・1344<年>に関東執事を高重茂(しげもち)(師直弟)と交代して京都に戻り、伊賀守護を務めていたが、・・・再度関東執事に選ばれ、また重茂と交代する形で関東に行ったのである。・・・
 観応元年(1350)・・・11月12日、・・・上杉能権(憲顕の子)が直義派として挙兵した。
 同年12月1日には、上杉憲顕も自身の守護分国上野に下った。
 25日、高師冬は上杉氏を討伐するため、新鎌倉公方足利基氏を奉じて鎌倉から出陣し、同日夜に相模国毛利荘湯山に到着した。
 だが、直義派石塔義房らが基氏の護衛を襲撃し、29日に基氏を鎌倉へ連れ戻した。・・・
 基氏を奪われた師冬は劣勢となり、甲斐国へ没落した。
 翌<1351>年正月4日、上杉憲将(のりまさ)(憲顕子息)が数千騎の軍勢を率いて甲斐へ出陣した。
 一方、上杉能憲は東海道を下り、直義との合流を目指した・・・。
 以上、関東地方においても直義派が圧倒的に優勢の戦況となった。

⇒上杉氏は姻族ですが、足利氏の係累と言ってよく、関東においては、係累と足利氏の家臣との戦いが、基氏という、尊氏の実子にして直義の養子
https://kotobank.jp/word/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E5%9F%BA%E6%B0%8F-25225
であった基氏を奪い合う形で、観応の擾乱が進行した、と言っていいでしょう。
 産みの親より育ての親です。
 直冬の場合と同じく、基氏も、尊氏よりも直義を慕っていて、観応の擾乱が最終的には尊氏側の勝利で終わっても、関東では、事実上、直義派の支配が続くことになった、と、私は見ています。(太田)

 越中国では・・・1350<年>10月20日に凶徒が蜂起し、同国氷見湊(ひみのみなと)を攻撃した。
 この凶徒は直義派越中守護桃井直常配下の軍勢であったと推定できる。

⇒これだけでは、何のことだか、分かりません。
 「鎌倉末期における・・・越中守護、名腰家の 得宗寺院の設立と海運との関連、 臨済宗法燈派の 展開と港町の展開、曹洞宗、日蓮宗の 諸寺院 と氷見湊との関連」についての研究発表がある
https://www.jstage.jst.go.jp/article/cuhreview/25/2/25_KJ00004455117/_pdf
ことから、私には、これは宗教上の騒擾であったように思われるのですが・・。
 直常の曽孫が日蓮宗の高僧になっている(前述)こともあり、直常がこの騒擾に、(例えば日蓮宗に加勢する形で)関与していたとしても不思議ではありません。(太田)

 まだ直義が蟄居して尊氏も出陣する前であったから、直常はかなり早い段階で直義派の旗幟を鮮明にしていたことになる。・・・
 桃井直常は、足利一門の武将である。
 ・・・1338<年>2月の大和国奈良般若坂における南朝北畠顕家軍との戦いにおいて顕著な軍忠を挙げたにもかかわらず、執事高師直にそれを無視されたため、憤って直義派となったとされる。・・・
 そして桃井直常・・・は、能登・加賀・越前の軍勢7000騎をしたがえ手越中を出陣し、・・・京都に攻め上った。・・・」(90~93)

⇒桃井直常自身は、現世利益命の分かり易き足利氏の係累であった、と言えそうですね。
 なお、「「越中国前守護桃井直常」が兵を挙げ<たところ、>・・・「飛騨国司姉小路家綱」<が>「桃井直常」を支援するために越中に出兵したが、<最終的に>「越中守護斯波義将軍」との【越中<五位>庄(※後院領から五位庄に転化したと見られる)の戦い】で大敗し、飛騨国司姉小路家綱の舎弟ら<は>降参あるいは生け捕られ<、>・・・その後の桃井直常は飛騨へ落ち延びたとも、越中で討ち死にしたとも言われ、飛騨国司姉小路家綱の動向は詳らかではない。」
https://blog.goo.ne.jp/magohati35/e/0ba195ed640fcfb6b5baf32deaafd62a 前掲
というのですが、桃井直常は、自分の後任で、かつ自分の孫を通じて姻戚関係にあった(前述)斯波義将に討たれた、というわけです。(太田)

(続く)