太田述正コラム#11776(2021.1.13)
<亀田俊和『観応の擾乱』を読む(その30)>(2021.4.7公開)

 「<1351年6月>13日、室町幕府追加法<(注52)>第55条が制定された。

 (注52)建武以来追加。「室町幕府の法令集の一つ。1巻。・・・室町幕府は鎌倉幕府の継承者を標榜した<ところ、>・・・足利尊氏が幕府の基を開いた建武年間 (1334~37) 以降の,『御成敗式目』に追加された条々を,後世まとめて1冊としたもの。追加のなかで,本条といっているのは,『御成敗式目』である。写本によって条数も異なり,98~210条となっているが,逐次追加法を取入れていったため,条数が増加した。最も古い形であろうと思われるものは,応永 29 (1422) 年までの条文を集めたもの。・・・
 初期には寺社・本所(ほんじょ)関係,守護・地頭関係などの国政的なものを含むが,15世紀半ば以降は徳政令をめぐる売買貸借法が大半である。」
https://kotobank.jp/word/%E5%BB%BA%E6%AD%A6%E4%BB%A5%E6%9D%A5%E8%BF%BD%E5%8A%A0-61107

 これは寺社本所領を強力に保護し、命令に違反する論人の所領3分の1を没収し、沙汰状命令を実行しなかった守護も罷免し、所領3分の1を没収する内容であった。
 実効性はともかくとして、非常に厳しい法令である。
 この追加法は、義詮の御前沙汰で制定されたと推定できる。・・・
 御前沙汰発足と引付方との権限の競合は、当然ながら義詮と直義の不和を増大させた。
 翌7月には、引付方の活動が停止した。
 直義は、戦わずして自身の制度的拠点を失ってしまったのである。・・・

⇒直義は戦わなかったというのですから、直義と尊氏/義詮との間に「増大」した「不和」などなかった、と、私は見ています。(太田)

 それにしても、事実上の恩賞方である御前沙汰が所務沙汰をはじめた意義はきわめて大きい。
 幕府の役割が、訴人・論人双方の主張を聴いて公平な裁定を下す調停者から、政権に貢献した者に対して恩賞として利益を与える主君へと大きく変質したことを暗示するからだ。
 中世日本の訴訟の性質が、観応の擾乱を境目として画期的に変化しはじめたのである。
 ・・・<繰り返すが、>引付方と異なって、御前沙汰<は、>原則として理非糺明を行わなかった・・・。
 先に紹介した追加法55条の内容からもうかがえるとおり、御前沙汰では訴人の提訴に従って沙汰付命令を出すのが基本で、論人の反論は聴かない方針であった。・・・
 一方的裁許(特別訴訟手続き)<である。>・・・
 先代鎌倉幕府においては、当初は、一方的裁許が主流であった。
 しかし貞永元年(1232)、三代執権北条泰時が『御成敗式目』を制定すると、理非糺明の訴訟が登場した。
 ・・・1225<年>に泰時が評定衆を設置し、・・・1249<年>に五代執権北条時頼が引付方を設置し・・・鎌倉幕府の理非糺明は制度的にも発展していった。
 こうした鎌倉幕府の執権政治は、後世理想の体制と評価されることになった。
 武士を見下す南朝の北畠親房も、義時・泰時の政治は善政と称えた。
 足利直義も彼らの政治を理想とし、評定–引付方という鎌倉幕府の政治体制をそのまま踏襲した。・・・
 しかし理非糺明の訴訟は、そこまですばらしいものだったのだろうか。・・・
 判決の実現も基本的に勝訴者の自助努力であった。
 論人が実力で係争地を占領し続ければ、泣き寝入りするしかない。
 何より、今も昔も訴訟には莫大な費用がかかる。
 長引けば長引くほど、多くの経費をつぎ込まざるを得なかった。・・・
 ちなみに鎌倉初期の一方的裁許と今回の一方的裁許は、似て非なるものである。
 鎌倉初期の一方的裁許は、評定–引付方といった訴訟機関が未整備の状態で行われたものであった。
 だが南北朝期は、幕府の訴訟制度も発展してノウハウが豊富に蓄積された段階である。
 有能な奉行人も多数そろっていた。
 一方的裁許で済ませてよい案件と、理非糺明に移行すべき案件を適切に識別できる体制が整っていたのである。・・・
 <しかも、>勝訴の判決を拝領<すれば>守護の沙汰付で所領や年貢を奪回<できるのだから。>・・・」(139~144)

⇒大学の法学部時代に日本法制史を取らなかったこともあり、私は、このあたりの話に土地勘が余りないのですが、一般論で申し上げれば、刑事訴訟においては、(裁判官が理非糺明を行い一方的裁許する)職権主義と(訴人たる原告と論人たる被告とが対等の立場で議論を交わす)当事者主義にはそれぞれメリット・デメリットがあるけれど、ここで取り上げられている民事訴訟においては、基本的には当事者主義しかありえない
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%93%E4%BA%8B%E8%80%85%E4%B8%BB%E7%BE%A9
のであって、室町幕府の(例外はあったようながら)一方的裁許制が機能するはずがないのですが・・。
 なお、当然のことながら、江戸時代の民事裁判は当事者主義です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%AE%E5%AE%89%E8%A3%8F%E5%88%A4 (太田)

(続く)