太田述正コラム#11790(2021.1.20)
<亀田俊和『観応の擾乱』を読む(その37)>(2021.4.14公開)

 「勝利したとはいえ、関東には直義派であった上杉氏などが多数潜伏している。
 将軍足利尊氏は、しばらく鎌倉に腰を落ち着けて東国を統治することにした。
 こうして、室町幕府は尊氏が東国、嫡子足利義詮が西国を分割統治する体制となった。・・・
 恩賞充行袖判下文も、この区分に従って発給されている。
 尊氏・義詮併せてこの時期の恩賞充行の件数が、室町幕府240年の歴史の中でもっとも多数である。・・・
 <但し、>少なくとも統治機構に関する限り、東国の尊氏政権よりも西国の義詮政権の方が・・・充実してい<た>。
 極端に言えば、尊氏は幕府の組織をすべて京都に残して、軍勢だけを引き連れて関東に下向した印象が強い。・・・
 ちなみに守護職も、西国は義詮が任命した。
 しかし何より画期的であるのは、尊氏–義詮父子が日本東西を分割統治した時点で、それまでの創造と保全の役割分担が解消したことであおる。
 このとき、幕府のすべての権限を一元的に掌握する最高権力者が初めて登場したのだ。
 ただし、その代わり事実上二人の将軍が列島を分割統治する体制となった。
 言わば、”権限の分割”から”領域の分割”となったわけである。
 完全な一元的な最高権力者の出現は、もう少し先の話であった。・・・
 この時期は・・・高重茂<(注66)等の>・・・高一族と・・・佐々木導誉<(注67)等の>・・・佐々木京極氏が車の両輪となって義詮を支えた観がある。

 (注66)こうのしげもち(?~?年)。高師重の子で師直、師泰の弟。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B8%AB%E9%87%8D
 「観応の擾乱での重茂の詳しい動きは不明であるが、重茂は直義と親しい仲にあったことから、直義に与していたのではないかと推測される。兄や師冬を始め高氏一族の多くがこの乱で殺害されているのに対し重茂は生き延びており、以後は鎌倉公方足利基氏の家臣として仕えているからである。
 ・・・1368年・・・、武蔵で宇都宮氏らが首謀した鎌倉府への反乱が起こった際に、重茂もこの反乱に与していたと言われている。反乱は9月に鎮圧されたが、この時に重茂は死亡したと言われている。生存説もあるが、この反乱の後の重茂の消息は不明である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%87%8D%E8%8C%82
 (注67)1296(1306?)~1373年。「鎌倉幕府創設の功臣で近江を本拠地とする佐々木氏一族の・・・分家・・・京極氏に生まれ・・・1304年・・・に死んだ母方の叔父である佐々木貞宗の後を継いで家督を継承する。・・・
 初めは執権・北条高時に御相伴衆として仕えるが、のちに後醍醐天皇の綸旨を受け鎌倉幕府を倒すべく兵を挙げた足利尊氏に従い、武士の支持を得られなかった後醍醐天皇の建武の新政から尊氏と共に離れ、尊氏の開いた室町幕府において政所執事や6ヶ国の守護を兼ねた。
 ばさらと呼ばれる南北朝時代の美意識を持つ婆沙羅大名として知られ<る。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E3%80%85%E6%9C%A8%E9%81%93%E8%AA%89
 「佐々木氏・・・は、・・・宇多天皇の第8皇子・敦実親王の流れをくむ宇多源氏、源成頼の孫・佐々木経方を祖とする一族。近江国蒲生郡佐々木荘を発祥に、軍事貴族として繁栄した。・・・
 祖の佐々木秀義は・・・保元の乱において、天皇方の源義朝軍に属して戦った。・・・平治の乱でも義朝軍に属して戦うが、義朝方の敗北により伯母の夫である藤原秀衡を頼って奥州へと落ち延びる途中、相模国の渋谷重国に引き止められ、その庇護を受ける。秀義の4人の子定綱、経高、盛綱、高綱は、乱後に伊豆国へ流罪となった義朝の嫡子源頼朝の家人として仕えた。
 ・・・1180年・・・に頼朝が伊豆国で平家打倒の兵を挙げると、佐々木4兄弟はそれに参じて活躍し、鎌倉幕府創設の功臣として頼朝に重用され、本領であった近江を始め17か国の守護へと補せられる。また、奥州合戦に従軍した一門の者は奥州に土着し広がっていったとされる。
 ・・・承久の乱が起こると、京に近い近江に在り検非違使と山城守に任ぜられていた定綱の嫡子である佐々木広綱を始め一門の大半は上皇方へと属し、鎌倉に在り執権の北条義時の婿となっていた広綱の弟の佐々木信綱は幕府方へと属した。幕府方の勝利により乱が収まると、敗れた上皇方の広綱は信綱に斬首され信綱が総領となる。
 近江本領の佐々木嫡流は、信綱の死後、近江は4人の息子に分けて継がれ、三男の佐々木泰綱が宗家となる佐々木六角氏の祖となり、四男の佐々木氏信が佐々木京極氏の祖となる。鎌倉政権において、嫡流の六角氏は近江守護を世襲して六波羅を中心に活動し、六波羅評定衆などを務める一方、庶流の京極氏は鎌倉を拠点として評定衆や東使など幕府要職を務め、北条得宗被官に近い活動をしており、嫡流に勝る有力な家となる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E3%80%85%E6%9C%A8%E6%B0%8F

 そして、この頃から導誉との確執が原因で失脚する武将が目立ってくる。・・・」(177、180~181)

⇒係累・家臣ばかりに優しかった室町幕府での例外的存在が非係累にして非家臣であったところの、佐々木導誉であり、この佐々木氏が、「注67」の後段からも分かるように、鎌倉幕府成立の際にも重要な役割を果たしたこともあり、私は、佐々木氏に強い興味を覚えるに至っています。(太田)

(続く)